石川慶監督の登場は、日本映画史における“事件”だ 荻野洋一の『愚行録』評

「『愚行録』の世界をF・スコット・フィッツジェラルド著『華麗なるギャツビー』のように僕は捉えていた。(中略)底辺から這い上がろうとした人間がたどり着いた先の悲劇であって」

 『華麗なるギャツビー』はレッドフォード主演版(1974)にしろ、ディカプリオ主演版(2013)にしろ、眼前にひろがる視界をめぐる劇であった。特にディカプリオ主演版が湖面の向こう側に明滅する光という水平の視界と、極端な高低差の視界を設けていたのと同様、『愚行録』も上下の往来によって招かれる悲劇を、じつにスリリングにカメラにおさめてみせた。撮影には、監督のポーランド時代の友人で、クシシュトフ・ザヌーシなどの撮影に携わってきたピオトル・ニエミイスキが当たった。日本映画のカメラを東欧の技術者が担当するというこの意表を突いたスタッフィング。そしてその陰鬱な画面は、ポーランド映画史にその名を刻むクシシュトフ・キェシロフスキ監督の『殺人に関する短いフィルム』(1988)を思い出させるくすみっぷりである。

「カメラマンを海外から呼んでも、グレーディング(色彩補正)を日本でやると、日本の湿度感の画になってしまうんです。だから今回はカラリストも『イーダ』(2013 パヴェウ・パヴリコフスキ監督)というポーランド映画と同じ人にお願いして、人の顔の肌など細かく調整してもらいました」(石川慶監督 談)

 全体に陰鬱な画面に覆われる現在シーンに比し、加害者や被害者たちの大学時代は、あざやかな色彩に包まれる。もちろんそれは青春のあざやかさだろう。しかし今、聞き取り調査に応じた彼ら彼女らは30代となっている。被害者となった夫の学友たち、会社同僚、妻の「文応大学」の同級生たち——彼ら彼女らを演じるのは、彼ら自身だ。つまり1980年代半ば生まれの俳優たち——小出恵介(夫役)、市川由衣、眞島秀和、松本若菜(妻役)、臼田あさ美、中村倫也、そして満島ひかりの学生時代も——が若作りの変装をして、彼らの回顧の中の大学生役を演じているのだ。そのため、大学生たちのことごとくが本当の若者というより、彼ら自身の記憶の中でたゆたう擬態でしかない、という事実があからさまとなる。

 日本社会の歪み、ゆがみを、時空間を縦横に飛びながら、極端な高低差がかもし出す不快さを凝視しながら、じわじわと移動する気味の悪いポーランド的なカメラワークでとらえる。これは日本映画史において、かなり異端的な事件ではないか。こういう無茶な、薄気味悪い映画が、満島ひかりや妻夫木聡といった豪華なキャスティングのもと、メジャーとして実現したことが興味深い。

 ひたすら緊張を強いる本作で、数少ない安逸をもたらすシーンは、ふたつ。ひとつ目は、満島ひかりが精神鑑定を受けるシーンの白い壁と明るい陽光の部屋。彼女はみずからの狂気、不幸せと向き合っている時が、最も安逸を感じているようである。そして安逸をもたらすもうひとつのシーンとは、妹・満島ひかりと兄・妻夫木聡の面会シーン。アップとアップの切り返しにおいては、もはや面会室のガラス板がいつのまにか忘れられ、取り払われている。無媒介的に兄と妹が顔と顔を突き合わせて語り合っているかのように、ピオトル・ニエミイスキは切り返しショットを重ねていく。精神科の診察室と留置所の面会室が最も安逸をもたらす空間であるという倒錯と悲しみとを、私たち受け手は、自分たちの生の中にも内包しているかも知れない暗部として、甘受していかなければならないだろう。

『愚行録』予告編

■荻野洋一
番組等映像作品の構成・演出業、映画評論家。WOWOW『リーガ・エスパニョーラ』の演出ほか、テレビ番組等を多数手がける。また、雑誌「NOBODY」「boidマガジン」「キネマ旬報」「映画芸術」「エスクァイア」「スタジオボイス」等に映画評論を寄稿。元「カイエ・デュ・シネマ・ジャポン」編集委員。1996年から2014年まで横浜国立大学で「映像論」講義を受け持った。現在、日本映画プロフェッショナル大賞の選考委員もつとめる。

■公開情報
『愚行録』
全国公開中
監督:石川慶
脚本:向井康介
原作:貫井徳郎
出演:妻夫木聡、満島ひかり、小出恵介、臼田あさ美、市川由衣
松本若菜、中村倫也、眞島秀和、濱田マリ、平田満、松本まりか
配給:ワーナー・ブラザース映画、オフィス北野
(C)2017「愚行録」製作委員会
公式サイト:http://gukoroku.jp/

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