宮台真司の月刊映画時評 第8回(前編)

宮台真司の『シン・ゴジラ』評:同映画に勇気づけられる左右の愚昧さと、「破壊の享楽」の不完全性

怪獣映画の時代、規定不可能性をどう確保するか

 『巨神兵~』のモンスターも『クローバー〜』のモンスターも、<世界>の謎に触れる得体の知れなさに満ちた崇高な存在で、ヒトの側が戦いに勝ったのか負けたのか分からず、そもそもヒトの側が勝たねばならないのかさえ分からない、という設定です。僕の考えでは、この規定不可能性こそが、「破壊の享楽」を数倍・数十倍に触媒する力を、発揮するのですね。

 負け戦を戦うべく庵野監督は、法的な規定不可能性を持ち出しただけでなく、4段階のメタモルフォーゼのアイディアを持ち込みます。実際最初に登場したゴジラの姿は不気味で、ゴジラ映画を期待する向きに違和感を与えるのに十分でしたが、変態を重ねて数倍に大きくなると皆が知るゴジラに近づき、崇高な存在として屹立しようとする姿が逆に痛々しく感じられます。

 従って、見終わった後に僕が感じたのは、ゴジラを、『巨神兵~』や『クローバー〜』に登場する怪物のような、<社会>への登録を全く欠いた、<世界>の存在理由に直接関わるような規定不能性として、描き出せなかったのか、という疑問です。怪獣映画や円谷シリーズを無数に見てきた観客の方々には、恐らく僕と同じように感じる向きが少なくないと思います。

 この機会に言いますと、「破壊の享楽」というモチーフを意識的・再帰的に展開する映画が、今世紀に入って陸続と出てきた背景に、<社会>における「なりすまし」を可能にした上で隠蔽するファンタズムの、機能不全があるように思います。機能不全は一時的なものでなく、映画の意味論的ベースが不可逆に変化したことを指し示すように思われますが、いかがでしょうか。

 主権国家と資本主義と民主政のトリアーデが成り立つ時代にしか、見ず知らずの人々を国民という仲間だと見做す感受性を持続できません。トリアーデは既にトリレンマに変じ、見ず知らずの仲間を守るために戦争で死を賭して鬪うという動機づけは自明でなくなりました。人々は<社会>から<世界>へと連れ出された結果、戦争映画が不可能になり、怪獣映画が残るでしょう。

■宮台真司
社会学者。首都大学東京教授。近著に『14歳からの社会学』(世界文化社)、『私たちはどこから来て、どこへ行くのか』(幻冬舎)など。Twitter

 

■公開情報
『シン・ゴジラ』
全国東宝系にて公開中
出演:長谷川博己、竹野内豊、石原さとみ
脚本・総監督:庵野秀明
監督・特技監督:樋口真嗣
准監督・特技統括:尾上克郎
音楽:鷺巣詩郎
(c)2016 TOHO CO.,LTD.
公式サイト:http://www.shin-godzilla.jp/

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