『インサイド・ヘッド』のインサイド "狂気の情報量"を投入する米国アニメに迫る

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アメリカ製劇場アニメの狂気の情報量

 ピクサーの映像表現は、新作の度に大幅に更新されるが、本作においても、数作前のピクサー作品と比較にならないほど、さらに繊細に鬼気迫る完成度に達している。カラフルに彩られ、漫画的軽やかさに満ちた脳内世界に対し、彩度が抑えられ、ひんやりとした質感でライリーを追った現実世界のパートは、日常シーンが多く見逃しがちになるが、例えばライリーが自己紹介する教室の、生徒たちが思い思いに行動する描写など、目を凝らすと気が遠くなるほどの情報が画面にあふれ、従来の作品であれば大スペクタルになり得る表現が、多くのシーンで当たり前に炸裂していることが分かる。

 作品づくりへの愛情や、ピクサーを立ち上げたジョン・ラセターの信念に裏打ちされていることはもちろんだが、この狂気のような情報量を投入する理由は、ライバルとなるスタジオの存在も大きい。今夏は、アニメ作品だけでも イルミネーション・エンターテインメントの『ミニオンズ』、アードマン・アニメーションズの『ひつじのショーン バック・トゥ・ザ・ホーム』など強敵が立ちふさがる。同じくジョン・ラセターが製作の最高責任者として統括する同系列のスタジオとはいえ、CGアニメーションの祖・ピクサーとして、ディズニーに負けたくないという想いもあるだろう。

 その戦いは、CGの限界に挑んだ豪華な映像だけにとどまらない。ピクサーでは脚本づくりのため、制作者、監督、ストーリー・アーティスト、各部門のスタッフによる、ときに数年に及ぶ脚本会議によって、ストーリーをブラッシュアップさせてゆく方法をとっている。これはラセターがピクサーで確立したストーリー作成法であり、今では『アナと雪の女王』などディズニー映画も、ラセターが製作責任者になったことで、この「ピクサー流」で進行されている。シナリオの弱い部分について「こうした方がいい」と鑑賞後に言い合ったりするのは、映画好きにとっても楽しい儀式だ。だがピクサー作品においては、大多数が考えるだろう脚本上の致命的な問題点は、すでに脚本会議で克服されている場合が多い。

 『ミニオンズ』もそうであるように、近年のアメリカ製アニメ大作の脚本は、大量のギャグを含めた案を休まず次々に投入する。CGなど表に出る部分だけでなく、脚本でも加速競争が過熱し、熾烈な総力戦が展開されるのである。この異常にスピーディなテンポの作品に慣れてしまうと、カンフーの達人にでもなったように、日本の一般的なアニメ作品が、まるでスローモーションのように見え、物足りなくなってしまう。

古典喜劇へと回帰するアニメーションの舞台

 この、次々にユーモアを繰り出す作劇は、アメリカ映画においては、かつて「スクリューボール・コメディ」と呼ばれた、洒脱なコメディ・ジャンルを想起させる。それは、アメリカのアニメーションが本質的に喜劇として作られているからであろう。ハリウッドで成功したエルンスト・ルビッチ、ビリー・ワイルダーという、演出家、脚本家でもあるアイディアマンは、ひとつの映画の中に大量の案を詰め込み、ハワード・ホークス監督はハイスピードの演出が連続する一連の喜劇を生み出した。日本においては川島雄三監督が代表的だ。

 スクリューボール・コメディの源流は、「ヴォードヴィル」と呼ばれるパリの舞台喜劇である。そこでは、比較的ナンセンスギャグの少ない『インサイド・ヘッド』のような感動させる作品も同ジャンルとして扱われる。かつてチャップリンやバスター・キートン、ハロルド・ロイドなどサイレント期の喜劇スターたちは、芸人として様々なコメディ表現を映画に持ち込んだが、とくに好評を博したのが「スラップスティック」という、大げさな身振りや活劇で観客を沸かせる方法であり、これをそのまま継承したのが、ジャッキー・チェンやトム・クルーズのスタント・アクションである。

 ハリウッド映画は、商業的に、より多くの観客に好まれる、映像的なスラップスティック的価値観に傾き、ヴォードヴィル風作品は、一部例外を除き、映画よりむしろTVが主戦場になっていったといえるだろう。TVで生まれた「ザ・シンプソンズ」は、ブラックなギャグが限界量まで連打され続けるコメディとして、アメリカの象徴的アニメーションになっているし、TV演出家であった『ブライズメイズ』のポール・フェイグなど、スクリューボール的感覚を映画に逆輸入した監督もいる。CGによってときに実写を乗り越える圧倒的リアリティを獲得したことで、米国製アニメーションは、このような、かつての洗練された質の高いコメディ表現を「映画」の世界にふたたび蘇らせることのできる、一大フィールドを得たといえる。

 この圧倒的な質と情報量を持つ大作に、他国のスタジオが対抗するとき、映像や脚本を、「余韻」「情緒」という曖昧な「芸術性」でごまかすことは、もう難しくなってきているのではと感じる。英国のアードマン・スタジオのように、粘土の手作り感を強調し伝統工芸化することで、CGに対する生存戦略を選び取ったように、日本で主流の手描きアニメーションに必要なのは、ドローイングの魅力の追求であるように思う。また脚本においても、かつてガレージ・カンパニーであったピクサーのように、『インサイド・ヘッド』などの独創的発想を生み出すことや、脚本の整合性強化へ向け、手立てを打つことはできるはずである。

 しかし、ピクサー流の会議による脚本づくりが、唯一の正しい道というわけでもない。ひとりで脚本を練り上げることは、思い込みに引っ張られもするが、それだけに常識をはずれた強い推進力を得ることもある。実際、宮﨑駿は多くの監督作品において、絵コンテを描きながらひとりで物語を作り出してきたのである。『バケモノの子』では、細田監督が初の単独脚本に挑んだが、彼が目指し挑戦するのは、紛れもなくこの強い作家性による作品づくりの道であろう。そして、その先には強烈な作家性を持つ「天才」ブラッド・バードもいるはずである。

■小野寺系(k.onodera)
映画評論家。映画仙人を目指し、作品に合わせ様々な角度から深く映画を語る。やくざ映画上映館にひとり置き去りにされた幼少時代を持つ。Twitter映画批評サイト

■公開情報
『インサイド・ヘッド』
公開中
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