杉江松恋の新鋭作家ハンティング 感情を排した文体の追跡小説、白石秀太『コンサートの呼びかけ』
えっ、こんな硬質な文章で書ける人がいるんだ。
白石秀太『コンサートの呼びかけ』(書肆侃々房)を読んで最初に思ったのはそういうことだった。硬質というか、感情を排した文章である。本書は4篇を収めた作品集で、表題作は第7回ことばと新人賞を受賞した、白石のデビュー作だ。
——妖怪作品を鑑賞していたら、英治の耳に“コンサート”が届けられた。
そういう一文から小説は始まる。ここで二つ読者にとってはわからないことがある。「妖怪作品」と、届けられる「コンサート」とは何かということだ。前者のほうは英治の妻である三奈が企画したもので、彼女自身が描いたアクリル画を含む保護者やこどもたちの妖怪画が展示されるほか、フィンガーペイントを使って絵具お化けになることもできる。その鑑賞中に英治の耳に「コンサート」が届いたのだ。
どうしても行かなければならない。英治は展示会の企画者でもある三奈に説明する。
コンサートとは一一九の暗号である。英治がかつて転入した学校で、友人ができた。高広、直、阿樹良という同性の三人だ。彼らとのつきあいは続き、まだ四人の誰もが結婚していないときに取り決めができた。言い出したのは高広だ。もし誰かが緊急事態に陥り、三人の誰かに助けてもらいたいときは、コンサートと伝える。そのメッセージを英治は初めて受けたのだ。だから行かなければならない。
その日は、こどもたちとその保護者が家族ぐるみの交流を楽しむ、平穏な土曜日だった。それを脅かさない程度で対応をしてよろしい、という許可が三奈から与えられた。午後五時になったら母親たちはささやかな打ち上げ、父親たちは我が子を連れて、絵具にまみれた体を洗ってやり夕食をとる。その流れを崩さないということである。
高広と直は東京を離れていた。阿樹良がコンサートを英治に向けて発したのは、そういう事情もあるのだろうか。現在の友人は埼玉在住である。
五歳の息子・草介を連れて英治は埼玉の家を訪ねたが、阿樹良はいなかった。代わりにその妻の真里が怒りに震えており、三歳の息子・陽一が母の怒りの火で焼かれたレタスチャーハンを食べていた。阿樹良は二人がいる家を出て、突然遁走したのである。その部屋を出てマンションのエレベーターホールまで行ったところで、建物の向こうに佇む人影を英治は発見する。阿樹良である。電話をかけると、意外なことに友人は出た。そして言う。
コンサートを発したのは何か「どっと降ってきた」ものにずぶ濡れにされたからだった。その正体が何かはまったくわからない。だが突き止めることによって自分で対応できるだろう。だから英治は帰ってくれていいと。英治は帰れない。とりあえず、缶コーヒーでも買って話そうと言うと、こんな答えが返ってきた。
「会える可能性は低いというのがおれの想定なんだよね。こいつ(傍点)を食い止められなくなってきた。行けるところまで行ってみるしかない。飛ぶことになるから、ここで失礼するよ」
通話は切られ、阿樹良は去る。話をきちんと聞くまでは帰ることができない英治は、それを追いかける。五歳の、まだちょっと絵具まみれの我が子・草介を連れて。
そういう発端の話である。ここから追跡小説になっていくのである。
助けを求めてきた友人のために主人公が力を貸す、という小説は過去にも多数書かれてきた。有名な例はレイモンド・チャンドラーが1953年に発表した長篇『長い別れ(別題:長いお別れ、ロング・グッドバイ)』(創元推理文庫ほか)である。私立探偵フィリップ・マーロウが、街で知り合った青年テリー・レノックスのためになろうとする物語だ。助けてやろうとしているのにレノックスはマーロウの忠告を受け入れようとはせず、やがて逃亡する。それと同じように阿樹良も逃亡する。マーロウと英治の違いは、マーロウはレノックスを追いかけるところまではいかなかったが、英治は追いかけることだ。
助けを求めているはずの者が信頼には値しない行動を取るというのは、私立探偵小説においては一つの類型になっている。私立探偵はそれでも相手を助けようとする。それはなぜか、ということを読み取ることがそうした物語では重要である。本作でも英治がなぜ逃げていく阿樹良を追うのかということは、あからさまには書かれない。だんだん物語が進行していくと、問わず語りに口にしたり、連れ回してしまっている我が子にフェアに接するために噛み砕いて話したりするので、少しずつそれが見えてくる。英治というキャラクターは内面を語らないが、行動が描かれ、コンサートになぜ対応しなければならないかという動機が部分的に明かされることにより、それが見えてくるわけである。
キャラクターに語らせない。行動によってそれを示す。小説講座では耳に胼胝ができるほどに言われる教えである。英治の内面はその他の断片的に示されるエピソードからも見えてくる。
彼には妻や子にも隠していることがある。英治はかつて映像作品を撮ったことがあったが、最近はもう何年もそれができていない。彼は毎週金曜日、仕事を一時間早く切り上げ、帰り道にカメラを持って夜の街を歩くのである。カメラをバッグから出さずじまいに終わってしまうこともあるが「撮りたいものがあれば撮るのだと決意して歩けば、何もできなくても、自分の眼が映像作家に切り替わっているつもりになる」からそうしているのだという。この人物は何かをするためには自分を納得させるための段階が必要なのである。
逃走劇の顛末がどうなるかはここには書かない。英治は救助者であり、追跡者であると同時に、家庭人であろうとする。離れた場所にいる妻とも適宜電話で連絡を取り合い、五歳の息子が不快な思いをしないよう、後になってこの小旅行がいい記憶として残るように配慮をしながら動き続ける。本作は一人称私立探偵小説のフォーマットを流用して書かれている。だが、五歳の我が子をここまで気遣って動き続ける私立探偵主人公というのは見たことがないように思う。タフなのではなく、ファミリアなのだ。そこがおもしろい。
英治と阿樹良、コミュニケーションが不成立であるために物語展開がずっと続くという小説である。感情描写を基本的に排した文体は、そういう展開には最適のものだ。本作のために選択された文体なのかと思って他の収録作を読んでみたが、これは現時点における白石の基本フォーマットなのだと思う。たとえば「遠泳」では、主人公たちが取っている行動に関する説明が限界まで削られ、代わりに、本来は日本語では表記されないような指示代名詞などがあえて挿入された形で、動きのある物語が綴られていく。そうすると主人公と共に動いていくような感覚で読んでいく者は、視野狭窄に陥るのである。他に目をやる余地がないからだ。その状態を利用して、作者は小説の緊迫感を上げようとしている。そんな感じで、四篇それぞれが異なった試みをしている。表題作以外は書き下ろしである。
ことばと新人賞は、文芸誌「ことばと」で行われていた公募文学新人賞で、本作が受賞した第7回をもって終了した。母体となった「ことばと」も第9号をもって終刊している。最後の最後にこんないい小説が出たんだったら、もう少し続けてもらいたかったな、ことばと新人賞。白石秀太が作家として化けたら、復活してもらえないものか。