速水健朗のこれはニュースではない
「革命はテレビ中継されない」の意味とは? 事件と生中継をめぐる物語『デッドマンズ・ワイヤー』のBGMを考察
ライター・編集者の速水健朗が時事ネタ、本、映画、音楽について語る人気ポッドキャスト番組『速水健朗のこれはニュースではない』との連動企画として最新回の話題をコラムとしてお届け。
第44回は、ガス・バン・サント監督の映画『デッドマンズ・ワイヤー』について。
事件と生中継をめぐる物語
映画『デッドマンズ・ワイヤー』の冒頭では、「ツァラトゥストラはかく語りき」が流れる。デオダートが1972年に発表したジャズ・ファンク版である。この映画では、ラジオ局のDJがかける音楽が、そのままBGMとして使われている。
この曲から浮かぶのは、もちろん『2001年宇宙の旅』の冒頭だ。人類が大きな進歩を遂げる瞬間に響く荘厳な曲だが、ここでは主人公トニーの車がエンストし、音楽も途中でスンと切れる。ファンキーに始まった物語が急にずっこける。トニーはこれから人生を賭けた計画を実行しようとしているのに、いかにも幸先が悪い。映画の調子を一瞬で示す、よくできた導入である。
映画は、1977年にインディアナポリスで実際に起きた人質事件を題材にしている。主人公のトニー・キリシスは、不動産開発をめぐって住宅金融会社と対立していた。会社に陥れられたと考えた彼は、経営者の息子を人質に取り、自分の主張を世間に伝え、会社側に謝罪させようとする。冒頭で車が止まったのは、その現場に向かう途中だった。
事件の現場にはテレビ局が駆けつけ、人質を連れて街を移動するキリシスの様子や、事件の最後に開かれた記者会見が中継される。これは、事件と生中継をめぐる物語だ。
初期のテレビは生放送が基本だったが、カメラや調整装置は巨大で、放送局の外から中継するのは簡単ではなかった。屋外中継には電源や中継車、映像を放送局まで送り返す専用回線や無線設備が必要になる。どこからでも生中継できるわけではなかったのだ。
その技術を発達させたのがスポーツ中継である。競技は場所と時間が決まっているため、カメラや回線を事前に準備できる。撮影機材の小型化に加え、マイクロ波回線や衛星中継などが発達すると、スポーツのために整えられた設備や技法が、事件や災害の報道にも転用されるようになった。
1972年のミュンヘン五輪で起きた人質事件を、スポーツ中継チームの側から描いた映画が『セプテンバー5』である。五輪中継のため現地入りしていたABCスポーツのスタッフが、競技中継から選手村の事件報道へ切り替える。スポーツを映すために用意されたカメラ、調整室、国際伝送回線が、そのままテロ事件を世界へ伝える設備になった。
同じ1972年、日本ではあさま山荘事件が起きている。警察による突入と人質救出の様子が10時間以上にわたって生中継され、多くの視聴者が結末の分からない事件の進行をテレビの前で見守った。事件の結果をあとから知るのではなく、視聴者がテレビの前で同時にそれを固唾をのみ眺める。強烈なメディア体験。これまでのテレビのあり方を一新した共通体験だった。
革命はテレビ中継されない
事件がリアルタイムで中継される時代になると、映画もその状況を物語に取り込むようになる。1975年の『狼たちの午後』も、実際に起きた銀行強盗事件をもとにした作品である。人質を取って銀行に立てこもる男を演じたのは、『デッドマンズ・ワイヤー』にも出演しているアル・パチーノだ。銀行を包囲する警察に抵抗する姿がテレビで伝えられ、群衆は次第に犯人を支持し始める。
さらに遡ると、1971年の『バニシング・ポイント』がある。逃走を続ける陸送ドライバーを警察が追い、その様子をカリスマ的なラジオDJが伝える。DJが逃走者を英雄として語ることで、彼に熱狂する人々や協力者が現れ、孤独な逃走が社会的な出来事へ変わっていく。
これらの映画では、メディアが孤立していた犯人と大衆を結びつけていた。犯罪者の主張がテレビやラジオを通じて伝わり、そこに大衆の反応が加わっていく。『デッドマンズ・ワイヤー』も、この構図によって物語が動いていく。
『デッドマンズ・ワイヤー』は、1970年代のニューシネマが描いた構図をそのまま現代の映像技術で作り変えただけのリメイク的な映画なのか。そうではないということが明らかにされるのは、エンドロールでのこと。ここでは、実際のキリシスを撮った映像が流れる。映画のトニーとは印象が違う。実物のキリシスは、より騒々しく、尊大で、自分の主張に酔っている。迷惑系YouTuberに近い。映画が実在の犯人を誇張したのではなく、むしろかなりおとなしく作り直していたのだとわかる。
そして、同じくエンドロールで流れるのが、ギル・スコット=ヘロンの「革命はテレビ中継されない」である。1970年に発表された、演奏に乗せて詩を朗読する楽曲だ。ギル・スコット=ヘロンは、作中でもラジオDJが聴くべきミュージシャンとして名前を挙げられている。本作は音楽によって完璧に始まり、音楽によって完璧に終わる。
「革命はテレビ中継されない」には、いくつもの意味がある。テレビはCMを挟みながら出来事を番組として流すが、革命は企業が提供するテレビコンテンツにはならない。また、ソファに座ってテレビを見ているだけでは、世の中は変わらない。革命は画面の中で誰かが起こすものではなく、自分たちが参加するものだという呼びかけでもある。そもそも、白人社会の関心を映すテレビが、黒人社会のことを伝えるはずもない。そのことも込められている。
中継テクノロジーの発達に人々が夢を見た時代と、インターネットの配信の時代を知る我らの時代。その間に横たわるギャップをこの映画は示している。ギル・スコット=ヘロンは正しかった。いかにメディアが発達しても、革命はテレビ中継されないのだ。