辻村深月 × 荻堂顕 対談 『かがみの孤城』から『いちばんうつくしい王冠』へ続く「加害」と「許し」
「子どもから大人まで楽しめる物語を書きたい」──その言葉の裏には、どれほどの覚悟と問いが潜んでいるのだろうか。『かがみの孤城』で十代の孤独と救済を描いてきた辻村深月と『いちばんうつくしい王冠』で“加害する側”の痛みと向き合った荻堂顕。ともに十代を主人公にしながら、異なる角度から物語を紡いできた二人が、初めて本格的に言葉を交わした。
演劇という装置を通して、罪と向き合う中学生たちの物語は、何を描き、何を描かなかったのか。十代を書くこと、大人が物語を手渡す意味、そして「許し」や「気づき」をどう描くのか。作家同士だからこそ踏み込めた、濃密な対話を届ける。
「今、これを読むこと以上に大事なことはないと思った」
辻村深月(以下、辻村):荻堂さんとはじめてきちんとお話したのは、私が選考委員をつとめる吉川英治文学新人賞を荻堂さんが受賞されたときのパーティの二次会でした。「今度、ポプラ社から8人の中学生が集まってデスゲームをする小説を書くんです」と声をかけてくださってとても驚きました。受賞作の『飽くなき地景』をはじめ、これまで荻堂さんが書かれてきた物語とのギャップを感じ、だからこそ刊行が楽しみでした。読み始めてみたら「今、『いちばんうつくしい王冠』を読むこと以上に大事なことなんてない」と思うくらい惹きつけられて夢中になりました。正確にはデスゲームではなかったけれど(笑)、すごくよかった。
荻堂 顕(以下、荻堂):どうしても、設定的に『かがみの孤城』をほうふつとさせるところがある……というか、完全に『かがみの孤城』を意識して書いた小説なので、ご挨拶しないわけにはいかないと思っていました。
辻村:正直、荻堂さんが私の小説を読んでくださっているとは思いませんでした。選考会当日にもご挨拶に来てくれたけど、全然、目を合わせてくれなかったじゃないですか。私の本には興味がないんだと、実はちょっと寂しく思っていました(笑)。
「守られたい」という感情を、書ける人はいない
荻堂:逆です(笑)。むしろいろいろ読んでいて、いちばん好きなのが『オーダーメイド殺人クラブ』。物語の後半、クラスのみんなから無視されるようになった主人公のアンちゃんが、先生から声をかけられるシーンが好きなんですよ。先生に対しては複雑な感情を抱いているにもかかわらず「大丈夫か?」と言われたことを喜び、頼りたくなっている自分がいる。
それがみじめで、情けなくて、悔しいんだけど、守られたい。そんな自分は子どもで、相手は大人なんだと思い知らされるその瞬間を描けるのがすごいと思いました。中学生のこの気持ちを生々しく抱き続けていられる作家を他に知らないし、それを言語化できる人もいないと思います。
辻村:ありがとうございます。『オーダーメイド殺人クラブ』は、切っ先が鋭すぎるぶん、届く層が限られてしまう印象もあるんです。『かがみの孤城』が映画化されたのをきっかけに、私の作品に興味をもって、同じ十代の物語だからと手にとった人たちが、戸惑う声を聞くこともあったりして。だけど、この書き方だから伝わることがきっとあるし、より深く誰かに刺さることもある。そういう方々には、何を見せても大丈夫という安心感があります。荻堂さんに響いたことは、とても光栄です。
荻堂:『かがみの孤城』は、十代の生々しい気持ちが描かれてはいるけれど、できる限り向き合いたくない自分の弱さやずるさを突きつけられて、読み手も一緒に「うっ」となるようなことは起きない。なぜかというと、主人公のこころちゃんに感情移入する読者が、それを求めてないから。同じように無理解な先生を描くにしても、『オーダーメイド殺人クラブ』のように、先生側の立場に寄った書き方はしないし、こころちゃんをいじめていた真田美織の事情も描かない。だから、どういう事情があっても二人は敵であるという気持ちを、こころちゃんと一緒に肯定してもらえるんだと思いました。何を書くか、書かないかで、二作に大きな対比が生まれているのも、非常に勉強になりましたね。
辻村:『オーダーメイド殺人クラブ』を書いていたときは、私自身が「どうしようもないことはありつつも、対話を重ねればわかりあえる」という期待を抱いていた部分も大きいんです。でも『かがみの孤城』を書いたころには、どうしたってわかりあえない者同士はいるし、わかりあえるという思いがかえって解決を遠ざけることもあるということを認められる感覚があった。
それは決してネガティブな結論ではなくて。こころを救ってくれた孤城の仲間とだって、出会い方が違っていたら反発していたかもしれないし、誰かと分かりあうためにはちょっとした運やきっかけが必要で、だからこそ関係性が育つことは尊いんだとも思うんです。物語の上では悪として描かれる美織のことを救うのは、もしかしたらあの担任の先生かもしれない。けれど、それはこころの物語の外側にあるものだし、美織を救おうと思ったら、本編と同じくらいの分量の別の物語が必要になってくる。だから、荻堂さんの『いちばんうつくしい王冠』を読み終えて実は最初に思ったのは、このチームの中に美織を預けたかったということでした。荻堂さんなら、彼女をどうにかしてくれたかも、と。
荻堂:傷つけた側の物語を描きたい、というのは、最初から明確に意識していたんです。今、傷つけられた側に向けた物語は次から次へと生まれているけど、人はだれしも純然たる被害者ではいられないし、どこかで誰かを傷つけているはずなんですよね。じゃあどう描くか、と考えたときに、思い浮かんだのが映画『アクト・オブ・キリング』。
辻村:……なるほど!
荻堂:インドネシアの虐殺事件を追ったドキュメンタリーで、虐殺に関わった人たちが当時どんな行動をしたのかカメラの前で演じさせて再現するんですよね。あの映画と『かがみの孤城』を掛け合わせてみようと思いつき、「気づいたら見知らぬ体育館に集められ、とじこめられた8人の中学生が、命じられるまま演劇の練習をすることで、自分たちの罪を自覚していく」という設定が生まれました。
辻村:親の承諾書がある、っていうのがすごいですよね。いったい親はどういう意図で、我が子をこんな境遇に!?と最後まで気になってしかたなかった。でも、『アクト・オブ・キリング』と聞いて納得しました。自分たちの罪とはなんなのか、問いただす子どもたちに、「自分で気づかなきゃ意味がないんだよ」と座長が言いますよね。加害をテーマにするということは、その過程を描くということに尽きるのかもしれない。他人がどれだけ言葉で伝えようとしても決して響かないものを、演じて内在化することによって、いやおうなしに気づかされていく。言語化よりまず先に感覚で。その過程には迫力があったし、すごいことに挑まれているなと感じました。
荻堂:僕自身、この演劇を通じてどうすれば「反省」に辿り着くことができるのか、探りながら書いていたところはあるんですけど、記憶の食い違いを利用したいなとは思っていました。自分が覚えていることと、相手が認識していることが違う、ということが、加害と被害が生まれる発端でもあるから。それは、『噛みあわない過去と、ある過去について』のテーマでもありますよね。この対談にあたって読ませていただいたのですが、書いている最中に読んでいたらだいぶ影響されていたかもしれない。
辻村:『噛みあわない過去~』に登場するのは大人たちなので、起きてしまったことにある程度の距離をもって受け止めることができるけど、『いちばんうつくしい王冠』の子どもたちはみんな中学二年生。心に柔らかいものを持っているからこそ、演劇の脚本のなかに自分の境遇と重なる言葉やモチーフが出てきたとき、ダイレクトに揺さぶられてしまう。その柔らかさのなかで変わっていくこともできると信じる大人たちが、この物語のなかには存在しているのだということが、読んでいるうちにだんだんわかってきて、その設定も素晴らしいなと思いました。
荻堂:ありがとうございます。もしかしたら、その設定自体をもっと知りたい人たちもいるんだろうけれど、『かがみの孤城』があくまでこころちゃんの物語であったように、『いちばんうつくしい王冠』も集められた8人のひとり、ホノカの物語でしかないから。大人と子どもはどうしたって対等にはなれないし、子どもはすべてを知って納得することもできない。でもそのなかで、どういう道を見出していけるのか、ということを描きたかったから、あえて書いていないことも多いです。
辻村:だからこそ、ラストで座長がもらした本音と、お母さんと向き合おうとするホノカの姿が心に響くし、読んでいる人たちが「自分の物語だ」と思えるんじゃないかと思います。きっと、群像劇として全員の視点を取るほうが展開はさせやすいし、わかりやすくもなるかもしれないけれど、ホノカの心の動きにあわせて読み手も残り7人への好感度や印象が変わり、物語に入り込んでいく。それぞれ、本名と劇中でわりふられる「〇〇王子」という名前があるんだけど、それ以外にも、本名を知る前にホノカが心のなかで呼んでいたあだ名という3つめの呼称がありますよね。あれも、よかったな。
――劇中のホノカはヤサシサ王子。それ以外は、ヨワサ、カシコサ、ツメタサ、ツヨサ、ムジャキサ、ズルサ、タダシサと、それぞれの性質を反映するような名前がついています。ズルサやツメタサだけでなく、一見、ポジティブに受け取られそうな性質が「罪」に繋がっていくのも読みごたえがありました。
荻堂:わかりやすい「悪さ」だけが誰かを傷つけるわけじゃない、っていうのは意識していました。個人的にいちばん好きなのはムジャキサ王子のコタロウ。いじめているという自覚もなく「いやならいやっていえばいいじゃん」とあっけらかんとした強さで、明るく、裏表なく生きている彼のような人が社会や組織で重要な地位に就いていて、そして、自覚なく誰かをいじめている。そういう光景や人物には、誰しも心当たりがあると思います。彼が反省まではしなくても、自分がしたことに傷つき恨みを抱いている人がいる、と自覚する過程をどれだけ解像度高く書けるかが、僕にとって挑戦しどころでもありました。
辻村:コタロウくん、ホノカの視点で追っていくと、嫌いになりそうな瞬間もたくさんあるんだけど、「こういうところがあるから嫌いになりきれない」っていうのも同時に伝わってきて、めちゃくちゃよかったですね。
荻堂:ありがとうございます。世渡り上手だから、友達が多いし、出世もするけど、いちばん身近にいる人たちとうまく関係を築くことができない。早々に結婚したけど、数年で離婚する……みたいな知り合いは僕のまわりにもいて。そのことを、本人はとくに気に病んでもいない感じも含めて、書けたらいいなあと思いました。
辻村:ネタバレになるので名前は伏せますが、個人的には、誰かが「学ぶ」ということを馬鹿にしてきた、そのしっぺがえしを受けている子が好きでした。コタロウくんもそうですけど、悪意はないんですよね。ただ、とくに十代のころは、おしゃれだったりコミュニケーション上手だったりするほうが大事で、本を読んだり何かを一生懸命学ぼうとしたりする人のことを、軽んじる場面がたくさんある。これまでずっと繰り返されてきたのに言及されてこなかったことを、今、荻堂さんが書いてくださったことがとても現代的だとも思いました。
荻堂:そんなことで? と思う人もいるかもしれないけど、僕がそもそも書こうとした発端は「誰しも加害者になりうる」ということだから、とりかえしのつかないような罪を描くのは難しかったんですよね。それは、読者もきっと、許せないだろうなと思ったし。もしかしたらすでに許せないくらい重いかも、って思うような子もいるけど……。でもやっぱり、生まれついた瞬間からいじめっ子で、人を加害するためだけに生まれてきたみたいな人って、僕は一人か二人くらいしか思いうかばないんですよ。
辻村:一人か二人はいるんだ。
荻堂:ゼロとは言わない(笑)。でもたいていは、生まれついた環境だったり家族構成だったりで、あんまり他人の気持ちを慮らなくてもなんとかなってきちゃった、みたいな人や、基本的には誰のことも傷つけないようにしているつもりだけど、無意識に、無自覚に、相手を踏みにじっちゃうこともあった、みたいな人だと思うんですよね。とくに子供がそういう罪を犯したとき、すべて自己責任と断じることは、少なくとも僕にはできない。100パーセントの加害者として書かないようには意識していました。
辻村:私が『噛みあわない~』を書いたのも、加害する側をケアする物語を書かなければ問題を解決することはできない、と感じ始めていたからなんです。『かがみの孤城』の作中では「いじめ」という言葉を極力使わないようにしたのですが、それは使った瞬間、「私はいじめなんてしていない」「いじめられるようなかわいそうな子じゃない」と両者ともに反発する感情がうまれて、誰も問題の当事者でなくなってしまうだろうと思ったからなんです。
まさに、『いちばんうつくしい王冠』でも、自分はただわからせてあげただけだ、みんなの輪を乱す人を注意しただけなんだと主張する子がいたけれど、そういうふうに、具体的な言動を示して「こういう状況が起きました」という複雑なことをできるだけ複雑なまま説明をしないと、当事者の子どもはもちろん、大人もそれがどういうことか、理解できない。だから、糾弾するためではなく、あくまで本人が「気づく」過程を物語の主軸にした荻堂さんの作家としての誠実さに胸打たれます。物語は、きっとそのためにあるのだとも。
荻堂:自分のしたことが誰かを傷つけたのだと知ることと、謝ってなかったことにするのは、まるで違うじゃないですか。それこそ、辻村さんのおっしゃったように、わかりあえない者同士は対話することもできない。それはそれとして自分を顧みることは必要だと思うから、この小説もああいうラストになったんだけど、「なんで仲直りさせなかったのか」と聞かれることも多くて、驚きました。すべてまるくおさめようとする仲直り教は、てごわいなと。
辻村:「許してほしい」の圧が時に暴力になりうるということは物語の世界でもなかなか言及されにくい。『いちばんうつくしい王冠』は、なんのために謝罪するのかということを含めて、彼らの問題にこれでもかと真摯に向き合っていると感じました。あと、大人たちが「こうあってほしい」と思うような子どもが一人も出てこなかったのがすごくいい。テーマははっきりしていたけれど、そのテーマを描くために子どもたちが存在しているわけじゃない。時代が変わっても、誰の心にも潜んでいるであろう感情が丁寧に描かれていました。
荻堂:ありがとうございます。今回は、若い人たちに向けてという依頼だったけど、僕自身、子どもはこうだって決めてかかられた小説を読むのはあんまり好きじゃなかったし、だからこそ、あの頃の感情をそのまま掬いあげて言語化する辻村さんの小説に打たれました。読者の年齢もあまり意識せず、でも大人としてセーフティネットにもなりうるような小説にもなるよう、バランスはけっこう考えながらかいていましたね。
辻村:ラストで大人たちの思惑が明かされたとき、子どもたちがちゃんと大人たちのことを信じることができる描かれ方をしているのが、私はとても好きでした。もちろん世の中にひどい親も先生もたくさんいるけれど、理不尽の多い世の中で、それでも、少なくとも自分の足場のことは疑わなくて済む。そんな安心感とともに読めるのが、十代の子に向けた物語を書くということなのかもしれない。この感覚が共有できる作家として、荻堂さんがこの本を書いてくださったことがとても心強く、嬉しいです。これから先、いろんな小説を書かれると思うのですが、また十代の物語にも帰ってきてくださいね。必ず読みますから!
■書誌情報
『いちばんうつくしい王冠』
著者:荻堂 顕
価格:2,420円
発売日:2025年10月29日
出版社:ポプラ社