『海が走るエンドロール』クライマックス迫る 65歳で映画の世界に飛び込んだ主人公はどんな答えを出す?
夫と死別した茅野うみ子(ちのうみこ)が久し振りに訪れた映画館で偶然出会った美大生、濱内海(はまうちかい、通称:カイ)に触発され、65歳にして映画監督を目指すシーンから始まる『海が走るエンドロール』(たらちねジョン/秋田書店)。
「このマンガがすごい!2022」オンナ編第1位にも選出された本作。2025年7月16日に発売された最新第8巻でいよいよ次巻で完結となる旨が発表された。帯には「65歳で映画の海に飛び込んだうみ子の物語ー次巻、最終巻!!」の文字が力強く記されている。クライマックスが近づく今、改めて本作の魅力を振り返っていきたい。
自身の衝動に素直に従うことの尊さ
元々映画好きで、夫との初デートも映画館だったことを思い出しながら久し振りにシアターを訪れたうみ子。映画を観ている客席側の光景を観ることが好きという共通点から、映像専攻の美大生カイに心の内を見透かされたかのように「映画作りたい側なんじゃないの」と心に波打つ言葉を浴びせかけられる。
これまで味わったことのない感情の正体にとまどいながらも、衝動に突き動かされるまま日常から一步踏み出したうみ子は、カイも通う大学の映像科への入学を決意するのだった。
何歳になっても、心が傾いた先に素直に歩んで行こうとするうみ子の姿勢には、尊さと羨ましさがない混ぜになったような感情を抱く読者も多いことだろう。1巻の表紙でうみ子が活き活きとした表情でカメラをこちら側に向けている姿もとても印象的だ。
生き方の選択肢について考えさせられる作品
『海が走るエンドロール』が大きな反響を呼んだ理由の1つが、人生の後半での生き方の選択肢について「うみ子」というフィルターを通して考えさせられる点だろう。
65歳にして夫が(恐らくうみ子の想像よりも早く)旅立ったことは悲しい出来事であることは間違いない。ただ、逆説的にうみ子の人生の選択肢の自由度が上がったきっかけにもなったのではないだろうか。喪ってしまったことで、埋めるための隙間ができたのだから。
まるで映画のような巡り合わせが人生で起こったり、ふとしたきっかけが転がりこんでくることは、長い人生で1度や2度くらいは誰しも経験があるのではないだろうか。
自分が心からやりたいと思う出来事に出会えた瞬間に、手を伸ばすこと。それは年を重ねれば重ねる程に、様々なしがらみや過去の経験の蓄積が影響し難易度が上がっていくように感じる人が大半だろう。主人公・うみ子はそのハードルを一足飛びに飛び越えているように見える。その自由気ままさや軽やかな決断力を羨望の眼差しで見つめる人も多いだろう。
しかし作中のうみ子は、映画を撮りたいという気持ち一つで美大に入ったものの、押し寄せる課題という現実や若い才能への嫉妬、自分のスタート地点が遅いことへの不安や焦りといった感情に苛まれることも少なくない。実に人間らしく、リアルな描かれ方をされているのだ。
そこからは、ただの老後の趣味ではなく、本気で映画作りに向き合う創作者としての矜持が感じられ、心動かされるのだ。
うみ子とカイがそれぞれ監督作を提出した映画祭のエピソードも非常に印象的だ。最終選考にも残らなかったうみ子の作品。かたやカイは映画祭のグランプリを獲得し、カナダの映画祭にも出展され、海外でも喝采を浴びる。カイへの称賛の気持ちもあれど、創作者としての悔しさや憤りを滲ませるうみ子の姿が刺さる。
映画を作ることは、自分の奥底へと深く潜りこむ行為そのものなのではないか。本作からは、そのような気概を感じる。掘って、掘って、掘り返して、同じ箇所を何度も何度もぐるぐる探し回って、その先にあるものをフィルムに収めようとする。その意味では65年重ねたうみ子の人生はアドバンテージになり得るのではないだろうか。どうしたって、自分の中にしか熱源はないのだろう。
自問自答のその先になんとか見出した着地点を「映画」というエンターテインメントに昇華させることの難しさと美しさを本作からは感じ取ることができる。
エンドロールが流れる時は近い。この物語の終幕で、うみ子はどんな答えを見出すのだろう。ラストの展開が気になり固唾を飲みながら客席に座る私達を、きっとうみ子はどこかしらからじっと見つめているのだろう。
フィナーレの瞬間、何色の感情が私達を支配するのか。その流れに身を任せてただただ漂うように、最終巻を楽しみたい。