NHK「手塚治虫 創作の秘密」再放送で話題 漫画の神様が大切にした“仕事の哲学”

■手塚治虫の仕事術に注目が集まる

  1月31日、NHK「時をかけるテレビ」で、「手塚治虫 創作の秘密」が再放送された。1986年に放送されたこの番組は、手塚治虫の仕事場にカメラを設置して原稿中の様子を撮影し続けたものだ。その約4年後に手塚が没していることから、非常に貴重な記録映像となっている。浦沢直樹がプレゼンターを務めるドキュメンタリー番組「浦沢直樹の漫勉」シリーズの誕生にも、影響を与えたことで知られる(番組内でも映像が使用された)。

  日本の漫画界を牽引し、60歳で亡くなるまで仕事に情熱を傾け続けた手塚は、生涯にわたって自身が信じた道を一心に突き進んだ“漫画の虫”であった。現代を生きる我々にも大事なことを示唆してくれる、手塚流の“仕事の哲学”をいくつか紹介しよう。

“日本初”が大好き、誰より早く実行する

  本初の30分枠テレビアニメの『鉄腕アトム』をはじめ、24時間テレビの枠内で放送された日本初の2時間テレビアニメである『1000年地球の旅バンダーブック』など、話題性のあるトピックは誰よりも先駆けて実行することを目指していた。

プライベートの時間を削ってでも漫画を描く

  1959年に宝塚ホテルで行われた結婚式の直前まで、漫画を描いていた話は有名。タクシーの車内や飛行機の機内で漫画を描くこともあり、移動時間中も漫画を描く時間に充てていた。もちろん、日常生活の中でもアイディアを練っていたのである。

ファンを大切にする

  ファンサービスが旺盛だった。サイン会もたびたび開催しているうえ、現存する手塚のサイン色紙を見ると丁寧なイラストが添えられたものが多い。さらに、福島県の会津に旅行した際は、地元の人たちにお願いされて漫画教室を開催してしまったほどだった。

来た仕事は断らない

  手塚が常に〆切に追われていた理由がこれ。どんな小さな仕事でも基本的には断らなかったといわれる。少年漫画誌、少女漫画誌、青年誌はもちとん、政党の機関紙から「週刊文春」まで、頼まれたらどんな媒体にも描いた。結果、約15万枚ともいわれる原稿を残した。

何度も何度も原稿を描き直す

  完璧主義であり、漫画雑誌に掲載された後、単行本になる際に手を加えるのはザラ。その修正量が尋常ではなく、コマを組み替えたり、セリフを書き直したり、オチまで変えてしまった例もあるほど。常にベストを尽くすのが手塚流だ。

大御所になっても新人のチェックを怠らない

  才能ある若手は常にチェックし、気にかけていた。若手が用いる流行の技法も、取り込めるものがあれば進んで取り入れた。大御所になってもその地位に胡坐をかかずに、常に進化しようと努めていた点に手塚の凄みがある。

アニメへの尽きない想い

  自身のアニメスタジオの虫プロダクションが倒産した後、再度、手塚プロダクションでもアニメ制作を再開。死の直前にも『青いブリンク』などのアニメの制作にかかわり、少年時代に惚れた“恋人”であるアニメへの想いは、生涯尽きることが無かった。

■手塚が生涯現役でいられた理由

 存命中から“漫画の神様”と呼ばれていた手塚の作品からは、ヒューマニズムなどのイメージが漂う。ところが、実際の手塚は売れっ子の漫画家に嫉妬するし、スランプに陥ったときはドロドロした世界観の漫画も描いている。世間に知られる神様のイメージとは正反対の、“人間臭い人物”だったといえる。

  人気の漫画は常にチェックし、流行の画風を取り入れることも厭わなかった。例えば、昭和40年代には『きりひと讃歌』などの青年誌向けの作品で、劇画の手法を取り入れる実験を行った。また、昭和50年後半にフランスの漫画家・メビウスの作風が流行した際は、その技法を『陽だまりの樹』などに多用している。

  古参のファンからは批判されることも少なくなったが、こうした貪欲さこそが、手塚が生涯にわたって第一線で活躍できた要因だろう。そして、寝る間も惜しんで漫画を描き続ける“漫画の虫”であり、“仕事の虫”であった。手塚は昭和を代表する漫画家であるとともに、昭和という時代を象徴する人物といえるだろう。

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