追悼・福田和也「保守革命主義者のとんかつとアジビラ、その享楽」 ーー絓秀実・寄稿

福田和也と絓秀実らによる舌鋒鋭い文芸評論の座談会。『皆殺し文芸批評: かくも厳かな文壇バトル・ロイヤル』(四谷ラウンド)

  閑話休題。端的に言って、「古屋健三と大岡昇平」は、大岡批判に仮託した蓮實重彦批判である。福田は一貫して蓮實に厳しかったが、この短文ほど苛烈な蓮實批判を私は知らない。

  大岡昇平の声望は、その死の前後において、きわめて高まったが、そのことに貢献したのが、蓮實による大岡へのオマージュにも似た高い評価であったことは疑いない。しかし、蓮實は大岡のスタンダリアンという重要な側面については、ほとんど触れることがなかった。これまた事実であろう。

  周知のように、蓮實はフローベーリアンであり、フランス留学先のパリ大学で博士号を取得している。当時の日本人留学生がフランスの博士号を取得することは稀有であった。古屋健三もまた、蓮實と同じ時期にフランス留学し、グルノーブル大学で博士号を取得している。二人は当時としては稀有なキャリアを持つ者同士として、相互に認め合っていた。「文壇」への登場は古屋が先行していたが、蓮實に日本の現代小説批評(古井由吉論、後藤明生論)の執筆を依頼したのは、「三田文学」の編集に携わっていた古屋である。1970年代前半に、初期蓮實の文芸批評を理解した上で執筆を依頼した「編集者」は、おそらく、古屋健三のみである。しかし、福田は二人のあいだの曖昧な信頼関係を断ち切り、古屋に就くことで蓮實を(大岡を)切り捨てたのだ。かつて古屋が大岡を(蓮實を?)多少リスペクトしたことがあったとしても、それはちょっとした「屈託」に過ぎないと、福田は断言する。

  それは良い。しかし福田の短文が分かりにくいのは、福田の大岡批判(≒蓮實批判)が依拠するところの、古屋の「「『赤と黒』の構造分析といった身の毛がよだつような授業」がどのようなものなのか、確かに古屋のものだから凄いのだろうが、良く分からないのだ。いったい、その梗概のようなものは何を読めば知りうるのか(誰か知るひとがいたら教示を乞う)。しかし、それを示さないのが、福田のアジビラあるいは妖刀たる所以なのである。

  福田は「保守」を自認したが、同時に「革命派」であり、言ってみれば「保守革命主義者」(アルミン・モーラー)であった。その福田の頂点をなし、なおかつ必然的に空しく宙に舞ったアジビラが、『日本クーデター計画』(1999年)だった。同書については、福田と個人的に会話したこともあるが、ここでは述べない。

  アジビラは享楽へと、そして革命へと誘うものであり、とんかつもまた享楽の味覚である。福田を死に誘った一因は、とんかつの享楽であったろう。30年以上前、三人で食べたとんかつの味がどのようなものだったかは思い出せないが、私は古屋健三と福田が、私をとんかつ屋に連れて行ってくれたのを、今も誇りうることとして記憶している。

 

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