古代と近代オリンピック、ルーツが異なっている説は本当? 観る前に知っておきたい豆知識

■全く異なる大会のルーツ 古代オリンピックと近代オリンピック

 そもそもオリンピックとは、古代ギリシャで行われていたスポーツ競技会の中でも最も格式高く大規模な競技会のことである。開催地はオリンピア地方のエリスで、紀元前776年の第1回大会から紀元393年の293回大会まで開催された。近代オリンピックは純粋な競技会だが、古代のオリンピックはギリシャの主神・ゼウスに捧げる祭典であり、疫病と戦争で荒廃したギリシャを立て直すためにデルフォイの神託に従って開催されたのがその起源である。このあたりは日本の相撲に神事としての側面があることに似ている。神社の奉納相撲と似た類のものとも言えるだろう。

  古代ギリシャの宗教はアニミズム信仰による多神教であり、わが国の神道における八百万の神々のように複数の神々をあがめていた。オリンピックはゼウスに捧げる祭典だが、ゼウスは男神なので古代オリンピックは女人禁制だった。ギリシャ神話には女神も登場するので、女神に捧げる祭典もあった。

  記録によると、継続的には行われなかったようだが、ゼウスの妃ヘラに捧げる祭典・ヘーライヤは逆に男子禁制の女子選手のみによる大会だったそうだ。オリンピック以外にも大規模な競技会は存在し、ネメア大祭(オリンピックと同じくゼウスを奉る競技会。2年に一回開催)、イストモス大祭(ポセイドンを奉る競技会。2年に一回開催)、ピューティア大祭(アポロンを奉る競技会。4年に一回開催)とオリンピックを合わせた4つが四大競技会と呼ばれていた。ギリシャ人はスポーツと何かを競うことに熱狂的であり、他にも小規模な大会が各地で行われていたとのことだ。

  古代ギリシャの都市国家スパルタの精鋭300人とギリシャに侵攻したクセルクセス率いるペルシア軍100万が激突したテルモピュライの戦いはペルシア戦争においてもっとも名高い争いの一つだが、一握りのスパルタ兵が命を懸けて戦っていたころ、他の大多数のスパルタ兵数万人はオリンピックを観戦に行っていたという事実はあまり知られていない。それを知ったクセルクセスが困惑したのは言うまでもないだろう。古代ギリシャ人のスポーツ狂ぶりはなかなかのものである。

  古代ギリシャ人のスポーツ狂は、観戦する根性もすごかった。古代オリンピック開催中のギリシャは猛暑なのが常であり、現代のように設備も整っていなかったので炎天下で観戦するのが普通だった。夏場のギリシャ南部は降雨量が非常に少なく、水も手に入りにくいため、相当数が熱中症で亡くなったと考えられている。イアトレイア(医療施設)はさながら野戦病院の様相だったとのことだ。当時は移動も困難だったはずなので、会場にたどり着くだけで相当な苦労があったのは想像に難くない。

  アテナイからオリュンポスまでは当時2週間かかったとのことだが、当時の道が舗装されて整備されていたはずもないので、時間がかかるだけでなく移動には危険も伴ったことだろう。命を賭してまで観戦しようとする古代ギリシャ人のスポーツ狂ぶりがうかがい知れる。

 その後、ローマ帝国が勢力を拡大し、ギリシャはローマの属州となったが、名前を変えながらギリシャの神話体系はローマの神話体系へと受け継がれた。ローマ建国神話のロムルスはローマ独自の神話だが、ゼウス→ユピテル、アポロン→アポロ、アテネ→ミネルヴァ、アレス→マルスなど名前を変えつつギリシャの神々はローマへと受け継がれた。連続した神話体系を持っているため、神々に捧げる祭典という側面はそのまま残した形でローマ属州時代もオリンピックは継続して行われた。

 しかし、このころからオリンピックは何かがおかしくなり始める。代表例が暴君ネロによる大規模な審判の買収行為だ。ネロは7種目で優勝したが、戦車競技では落馬して完走もできず、音楽競技(古代オリンピックでは詩などの文化競技もあった)で披露した歌は劣悪で聞くに堪えないものだったとのことだ。ネロが失脚して自害すると、暴君の勝者としての記録は抹消された。本来オリンピックの勝者に与えられるのはオリーブの冠と名誉だけだったが、ローマ時代になると優勝選手が金銭を受け取ることが常態化した。褒章欲しさに不正を働くもの、審判を買収するものが後を絶たなくなり、古代オリンピックは腐敗し始めた。テオドシウス帝の時代になるとキリスト教の国教化と異教祭祀全面禁止令が発せられ、ギリシャ土着の神であるゼウスに捧げる祭典だった古代オリンピックは終焉を迎えた。

 それから約1500年後、19世紀末にオリンピックは近代オリンピックとして復活する。

  ピエール・ド・クーベルタン男爵はイギリスとアメリカのスポーツ教育に感銘を受け、フェアプレーの精神に則ったチームスポーツは若者の人格形成に役立つと考えていた。クーベルタンが古代ギリシャ史に強い関心を抱いていたこともあり、スポーツの国際交流による世界平和の実現とスポーツを通じて道徳的・倫理的価値を重視した人格形成の場づくりを目指す理想を掲げた。クーベルタンは1892年のフランス・スポーツ連盟の総会で初めてオリンピックの復活を提案した。

  これを受けて2年後の1894年にソルボンヌ大学(パリ)で開かれた国際スポーツ会議で審議された。そして全会一致でオリンピックの復興が決議された。国際オリンピック委員会(IOC)が設立され、決議された6/23はその後、オリンピック・デーに制定された。

  IOCは現在、本部をローザンヌ(スイス)に置いているが、設立の経緯もあり1915年に移転が決議されるまで本部はフランスにあった。オリンピックの決議が行われたのはパリの大学であり、古代オリンピックのルーツがギリシャ・オリンピア地方のエリスなら近代オリンピックのルーツはフランスのパリにあるとも言える。第1回近代オリンピックの開催地はアテネだったが、大会発足の経緯を考えると、今回のパリオリンピックは「近代オリンピックの故郷に帰ってきた」とも言えるだろう。

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