恐怖と笑いは紙一重? 『地獄楽』に出てくる化物たちはなぜ“怖い”のか
※本稿は、『地獄楽』(賀来ゆうじ/集英社)のネタバレを含みます。同作を未読の方はご注意ください。(筆者)
現在放送中のテレビアニメがきっかけで、賀来ゆうじの漫画『地獄楽』を読み始めたという人も少なくないと思うが、物語の序盤においてまず驚かされるのは、謎の島を訪れた主人公・画眉丸らに突然襲いかかってくる化物どもの異様な風貌ではないだろうか。ひと言でいえば、それらは、やけに怖い。
そこで本稿では、“なぜ『地獄楽』に出てくる化物たちは怖いのか”について、改めて考えてみたいと思う。
“極楽浄土”という名の“地獄”への旅
時は江戸時代末期。かつて最強の忍(しのび)として恐れられていた「がらんの画眉丸」は、ある事件を経て死罪人(囚人)となっていたのだが、打ち首執行人の“山田浅ェ門”佐切という女性と出会ったことで、物語は動き出す(注・「山田浅ェ門」とは、数多くの処刑執行人を輩出してきた「山田家」の屋号であり、本作には複数の「山田浅ェ門」が登場する)。
火あぶりから牛裂きにいたるまで、様々な“刑”に処されながらも、なぜか死ねない(死なない)画眉丸。そんな彼に佐切はいう。琉球国のさらに彼方にある謎の島(「極楽浄土」、「常世の国」、「神仙郷」などと仮称されている)を訪れ、“不老不死の仙薬”を持って帰ってくれば、いかなる罪も無罪放免になるのだと。
実は画眉丸には“生”に執着する理由が1つだけあり、それは、“誰も殺さず、静かな土地で、愛する妻と普通に暮らすこと”だった(ただし、妻の現在の消息は不明)。かくて、画眉丸は幕府発給の公儀御免状(無罪放免の書状)を手に入れるため、9人の死罪人とその監視役である“山田浅ェ門”10人とともに(むろん、画眉丸の監視役は佐切である)、南海の秘境――“極楽浄土”に潜入することになる。
“得体の知れないもの”がいちばん怖い
と、ここまで書けばおわかりかと思うが、この『地獄楽』という物語は、基本的には最初から最後まで、いわゆる“デスゲーム物”、“集団バトル物”の方法論で描かれている。じっさい、島に上陸した主人公たちが最初に始めた“戦い”は、死罪人同士の殺し合いであった。
ところが、彼らはやがて、恐ろしい“別の敵”と遭遇することになる。人間と他の生物が合体したかのような化物や、目から手を生やした巨人、そして、神や仏の姿をした怪物などが、問答無用で襲いかかってくるのだ。
まず、これらの異形がなぜ“怖い”のかといえば、それは、改めていうまでもなく、“得体が知れない”からである。そう、なんのためにこのような動物とも人間ともつかない、あるいは、神か魔物かわからないような非現実的な化物が島にいるのか、監視役である“山田浅ェ門”たちでさえも知らないのだ。諫山創の『進撃の巨人』の例を出すまでもなく、“なんだかよくわからないもの”が襲ってくるからこそ、人は恐怖を感じるのである。
だが、その“怖さ”を少しでも長く持続させるためには、これまで誰も見たことのなかったような絵的なインパクトが必要だ、ともいえるだろう。誤解を恐れずにいわせていただければ、漫画という表現でもっとも重要なのは“絵の力”であり、つまり、見た目の面白さや斬新さがなければ、(“得体が知れない”というだけでは)読者の興味はいつまでも引けないと思うからだ。
ギャグすれすれの絵が、恐怖を増幅させる
それでは、そのインパクトのある絵とはいったい何か。簡単にいえば、それは、“普通の見た目ではない”ということであり、極論すれば、“変な絵”ということになるだろう。
つまり、普通に、“怖さ”や“強さ”が記号的に強調された、“いかにも”な化物の絵を描くよりは、むしろギャグすれすれの“変”な――すなわち、滑稽な見た目の存在による残酷な行いを描いた方が、読み手に恐怖(や絶望)を与えられる場合もあるのだ。たとえば、先に挙げた『進撃の巨人』に出てくる巨人たちがなぜ怖いのかといえば、“人間に似た存在が人間を喰う”というその行為自体のおぞましさもあると思うが、それ以上に、彼らの顔や体のパーツが妙にアンバランスだったり、常にいびつな笑みを浮かべていたりするからだろう。
『地獄楽』の化物たちも同じだ。主人公・画眉丸は、初めて化物の1体に遭遇した際、とっさにこう“分析”している(なお、この時の彼が対峙しているのは、頭が魚で、体は人間だが手が6本、という化物である)。「なんだコイツ? 魚? あまりに非現実的 化物? 生物? 数珠つけてるけど バカバカしい見た目… わからない事だらけだが 本能が告げている 危険だと」
また、“山田浅ェ門”の1人である仙汰(学者肌の監視役)も、のちにこう語っている。(島にいる化物たちは)「恐ろしいのですが 間抜けです」
要するに、画眉丸と仙汰の2人は、「バカバカし」くて「間抜け」な見た目の敵だからこそ、思わずこちらの平衡感覚が狂わされてしまう(さらにいえば、一瞬、戦意を削がれてしまう)――それゆえに、「危険」という真理を(片や本能で、片や知性で)見抜いているということだ。