追悼・仲本工事 芸人よりも一流のプロミュージシャンだった ドリフの中で自伝のなかった男が描いていた夢 

 2022年10月19日、ドリフターズの名バイプレイヤー、仲本工事が81歳で亡くなった。

 といっても、ドリフターズの全盛期自体、ずいぶん過去のことなので、仲本工事が誰であるのか、知らない人も多いのかもしれない。

 『8時だョ! 全員集合』世代にとっては、「体操のお兄さん」や「ばか兄弟」の印象が強い仲本だが、60年代のコミックバンド時代まで遡れば、腕利きのギタリストとしての仲本像が浮かび上がってくる。

 卓越したギターの技術、そしてバリトンの美声。

 そう、仲本は芸人というよりは、一流のプロミュージシャンだったのだ。

 4年前、文春オンラインにて仲本工事がインタビューを受けている。当時77歳。その取材のミュージシャン時代の話がとても興味深い。

 仲本は元々、有望な体操選手であり、学生の頃は東京オリンピック出場を目指していたこともあったようだ。だが、進学した学習院大学には体操部がなかったため、オリンピックの道を断念。そのかわりに、大学時代はジャズ喫茶で音楽にどっぷりとハマる。

 加藤茶がドラムを叩いていたバンド「クレイジー・ウエスト」のライブに飛び入り参加し歌ったところ、気に入られてバンド人生がスタート。

 それから、「ジェリー藤尾とパップ・コーンズ」というロカビリーバンドに移籍し、セカンドボーカル兼ギターに抜擢される。当時から技術レベルが相当高かったのだろう。

 仲本いわく、パップ・コーンズ自体は音楽のレベルがすごく高かったそうだ。その時点で、仲本はまだ学生だったというから、何とも早熟過ぎる。

 そんな活躍に目を付けたのは、ドリフターズのリーダー・いかりや長介。当時ドリフターズはメンバーの大きな脱退があり、新生ドリフメンバーを模索していた。その際、いかりやは、荒井注、高木ブーに続いて、仲本を誘うことになる。

 「ギターを持ったら不良」と言われた時代。当然ながら仲本の親はドリフターズ入りを大反対したが、それでもいかりやは親元まで訪ね、説得したという。どうしても仲本をメンバーに引き入れたかったのだろう。

 その頃のドリフターズは、軍歌や民謡、歌謡曲の替え歌が主体のコミックバンドの活動が中心だった。「クレイジー・キャッツ」の後塵を拝しているような評価だったが、バンドレベルとしてはかなりのものだったという。

 おどけ、ときにはドタバタを演じながら演奏をするのは、一見簡単にやっているように見えるが、並大抵の技術ではない。ベースのいかりや長介も同様だが、アクションがあってもリズムを崩さずに、コードをとっているのは、さすがだと言わざるを得ない。

 ちなみに、仲本のギターはすべて独学。それでもドリフターズの音楽コントのアレンジは、すべて仲本が譜面を書いていたというから、どれだけ才能に溢れていたのだろう。

 ドリフターズを語る上で欠かせないのが1966年に来日したビートルズの前座を務めたこと。尾藤イサオ、内田裕也、ジャッキー吉川とブルー・コメッツ、ブルー・ジーンズと共に参加している。当時、ドリフターズではビートルズのコピーもやっていた。

 「思い出すのは、譜面が書きにくいなあってこと、~中略~ コード進行が斬新すぎて写しにくいの。だからこそ、音楽の歴史を変えたバンドって言われているんだろうけど」と語る仲本。

 ドリフターズの持ち時間は、わずか40秒。それでも「のっぽのサリー」をコミカルに演奏してみせた。ヴォーカルを務めたのは仲本だ。

  その後、ドリフターズはコミックバンドからコント集団へとシフト。『8時だョ! 全員集合』は最高視聴率50.5%のお化け番組となる。

 ただ、仲本はコントをやるつもりなどまったくなかったという。インタビューでも「なんでここまでいかりやさんに叱られながら、好きでもないコントの稽古してるんだろうって。今でも思ってるよ、なんで僕コントしてるんだろうって(笑)」と語っているが、それでも確固たるキャラクターを作り上げたのだから、やはり何をやらせてもそつなくこなす器用な人物だったのだ。

 意外なことだが、ドリフターズの全盛期には、メンバー誰ひとりも自伝を出していない。いかりや長介『だめだこりゃ』(新潮社)、志村けん『変なおじさん』(日経BP社)、高木ブー『第五の男』(朝日新聞社)、すべて2000年前後のことだ。単独の自伝ではないが、加藤茶も2022年に妻の綾菜によるコミックエッセイ『加藤茶・綾菜の夫婦日記『加トちゃんといっしょ』 (双葉社)を出版している。

 そんな中で、仲本はまだ自伝を出していなかった。

 先の文春オンラインのインタビューでは、「一つだけ夢と言えば、本を書きたいですね。これまで仕事をしてきた中で、たくさんの素晴らしい人に出会ったから、その人たちのことを書いておきたい」と最後を締めている。

 だからこそ筆者は、仲本の自伝を企画してインタビューをしたいと思っていた。筆者はある出版社に企画を提案したことがあったが、コロナ禍もあって、企画段階でボツになってしまった。フリーランスだったので、企画会議にすら出られなかったわけだが。

 あのとき、なぜもっと企画をゴリ押ししなかったのかと、今になって後悔する。タイトルだってひそかに色々と考えていたのに。

 音楽の才能があってコントもこなし、身体能力も人並み外れていた。晩年は俳優としても活躍して評価を得ていた。それでも、前に出過ぎずバイプレイヤーとしての矜持を貫いた仲本工事。

 不幸な事故が起きてしまったことは非常に残念だが、仲本の生前の功績はもっと世に知られるべきだと改めて思った。

 1967年の「涙くん愛しちゃったのよ」の動画を観ながら、哀悼の意を表したい。
それにしても……仲本はギターがうまい。

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