西條奈加『心淋し川』が激戦の直木賞を制した理由は? 細谷正充が作品の魅力を紐解く

 この作品は連作短篇集であり、「心淋し川」から「灰の男」まで、六作が収録されている。物語の舞台は、江戸は千駄木町の近くにある心町(うらまち)。小さな川が流れていて、その両側に立ち腐れたような長屋が四つ五つ固まっている、人生の吹き溜まりのような場所だ。しかし、そんな所でも人は、懸命に生きている。作者は、そんな人々の人生を見つめている。

 冒頭の「心淋し川」の主人公は、19歳のちほ。父親は酒好きで仕事が長続きせず、一緒に針仕事をしている母親は、愚痴を零しまくっている。かつて姉がいたが、鮨売りをしていた男の女房になり家を出た。どん詰まりで燻るような日々に不満を抱いているちほ。だが、針仕事の出入り先で知り合った男と、付き合うようになる。男と一緒になって、家を出ることを夢見るのだが……。

 ストーリーは、ちほの心の動きを丹念に追いながら、ある理由から男との恋が終わるまでが描かれている。その瞬間の文章が秀逸。“焦れたり浮ついたりと忙しかったものに、すとんと収まりがついて、大人しくなった。収まったのは、恋心か――”と書いてあるのだ。ここで使われている“大人しくなった”という文章に留意したい。もちろん意味は違う。だが、ひとつの恋が終わったことで、ちほが大人になったことを、読者に印象づけるのだ。言葉ひとつにしろ、ここまで考え抜いてセレクトし、人の心を鮮やかに表現しているのである。

 以後、旦那に死なれた妾が、意外な生き甲斐で次の人生に向かう「閨仏」、飯屋の主人と少女の交誼が小さな幸せに繋がっていく「はじめましょ」など、どれも読みごたえあり。そしてラストの「灰の男」では、各話の主人公たちのその後に触れながら、心町の差配をしている茂十の抱えていた秘密が明らかになる。この話、西條版「恩讐の彼方に」というべきか。作者の人間に対する眼差しが、優しいだけでなく、厳しいものも含んでいることが、強く伝わってくる。連作短篇集であるが、作品の読後感は、重厚な長篇のそれと変わらない。なるほど激戦を制して、直木賞を受賞したのも納得の名作である。

■細谷正充
 1963年、埼玉県生まれ。文芸評論家。歴史時代小説、ミステリーなどのエンターテインメント作品を中心に、書評、解説を数多く執筆している。アンソロジーの編者としての著書も多い。主な編著書に『歴史・時代小説の快楽 読まなきゃ死ねない全100作ガイド』『井伊の赤備え 徳川四天王筆頭史譚』『名刀伝』『名刀伝(二)』『名城伝』などがある。

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