婚活迷子に“プロレス”が教えてくれることーー『婚活迷子、お助けします。』第八話
泣いたんです、わたし。はじめて試合を観たとき
静子との出会いだけでなく、華音が元恋人と別れるきっかけとなったのも、この場所で生まれてはじめて観たプロレスだった。4年前のあの日、ひとりで後楽園ホールを訪れていなかったら、もしかしたら華音は彼との結婚を大人しく受けいれ、その窮屈さにいまも窒息しかけていたかもしれない。
「会社の先輩が急に行けなくなったって言って、くれてさ」
そう言って彼は、かったるそうに、華音に2枚のチケットを見せた。
「金曜の夜だぜ? 俺だってそう簡単には行けないっつうんだよなあ」
「でも来週でしょう? 一緒に映画行こうって言ってた日。私は予定変更してもいいよ」
「え、なに。おまえ、プロレスなんて興味あんの?」
そのころには“おまえ”と呼ばれることに違和感を覚えはじめていた華音は、小ばかにしたように鼻を鳴らした彼に、じんわり広がる不快感をおしこめながら、笑みを浮かべた。取引先に対するように彼と向きあうようになったのは、いつからだったろうと思いながら。
「そういうわけじゃないけど、せっかくだし。会社にも、ハマってる人がいてね。痛そう、怖そうってイメージが強いけど、案外そうでもなくて、エンタメとして楽しめるんだって言ってた。観ると元気になるって」
「殴り合いみて元気になるって、あんまいい趣味とは思えないけどなあ。チケットくれた先輩も、元ラグビー部で、なんつうか体育会系のノリが強いんだよね。俺、苦手なんだよなあ」
そう言って、ネクタイをゆるめながら元恋人は冷蔵庫から出した缶ビールの蓋をあけた。同棲しているわけでもないのに、一言の断りもなく冷蔵庫を開けるようになったのは、婚約してすぐあとからのことだった。
「……行ってみたいな、私」
華音が言うと、元恋人は、先ほどよりも大きく、明確に鼻を鳴らした。
「だったら俺、飲みに行ってくるわ。久々に大学の同期から誘われて、どうしようかなと思ってたんだよね。あ、ちょうどいいから、あとで内容教えてよ。先輩に適当に感想言わないといけないし」
聞きながら、もうすこし丁寧で優しい人だったのになあ、と華音はさみしく思った。婚約するまでは、自分に興味のないことでも華音が惹かれているそぶりを見せれば、華音が遠慮するのも聞かずに一緒に楽しんでくれた。先輩に対しても、多少の愚痴を吐くことはあっても、これほどあからさまにいやな物言いをすることもなかった。
懐に入ったんだな、と思った。
彼にとって華音は気を遣うべき他人ではなく、家族同然の相手となった。だから、これまではとりつくろっていたことを、隠すのをやめたのだ。それは、華音ならば受け入れてくれるだろうという信頼の証ともとれる。実際、すでに結婚している先輩たちはそう言った。女性は「甘えてんのよ、かわいいじゃない」。男性は「男は外で戦ってるぶん、家では全力で緩みたいし、全部許してほしいんだよ」と。
私も働いているのに、という言葉は飲みこんだ。今はそんな時代じゃない、なんて言ってもどうしようもないのはわかっていた。何人か、同情してくれる同僚もいたけれど、あまりに憐れんだ目を向けてくるのでやはり相談するのはやめた。どうしてそんな人と婚約しちゃったんですか、と言われるたびに、己の見る目のなさを責められているような気がしたから。
そうして、右隣のあいた席で、華音はひとり、はじめてのプロレス観戦デビューを果たした。だれにも説明してもらえず、3カウントで負けというくらいしかルールもわからないなかで――レフェリーが昏倒させられたり、場外に飛び出していってもカウントをとられなかったり、不測の事態が多すぎて正直混乱もしたけれど――外国人選手同士のアクロバティックな試合に目を奪われた。
浅黒い肌のアメリカ人選手と、反対にまっしろなイギリス人選手。敵同士のはずなのにタイミングをあわせて華麗に、対照的に宙を舞う。これは試合じゃないのか、エンターテインメントショーなのか、と戸惑っていたのは序盤だけで、すぐに二人が互いの手の内をみせあっているだけで、まごうことなき真剣勝負に挑んでいることは伝わってきた。リングに叩きつけられ、蹴りをくらい、場外に倒れこむ。それでも何度も何度も、武骨に立ち上がっては挑みかかるイギリス人選手のほうに華音は惹かれ、気づけば拳をにぎっていた。
数十分が経過したころ、彼の足は、生まれたての小鹿のように震えていた。とっくに人体の限界は超えているのだと思った。それでも彼は立ち上がり、みずからリングに沈み込むことは許さなかった。……最終的に勝ったのは、彼のほうだった。
「泣いたんです、わたし。はじめて試合を観たとき」
そのイギリス人選手が――あのときはルーキーだった彼が王者の貫禄を漂わせて、あのときと変わらないどころかますます磨きのかかった軽やかさで相手に挑みかかっていくのを見ながら、華音はつぶやく。隣にいる志津子もまた、あのときの華音と似た戸惑いをみせながら、拳をしずかに握っていた。
「隣に座っていた静子さんが、ハンカチを貸してくれました。静子さんもひとりで観に来ていたんです。そのあと、初対面なのに一緒にごはん食べました。プロレス観たあとは肉よねって、赤身肉をごちそうしてくれて」
すごかったでしょう、と静子は言って、すごかったです、と華音は答えた。プロレスってね、おもしろいのよ。勝ちの最短距離は狙わないの。肉体を通じてコミュニケーションを重ねた先で、すべてをねじふせる強さを相手に見せつけるのよ。
「……だから技を受けるんだって、静子さんは言っていました。勝負は自分だけのものじゃない。相手があって成り立つってことをちゃんと示すために、何を仕掛けられても自分の強さは揺るがないことを証明するために」
相手の技量に敬意を払い、すべてを受けとめたうえで跳ね返す。だから負けた相手も、その強さを前に感服するの。ハイボールをぐいぐい飲みながら、おばあちゃんと言ってもおかしくない年齢の静子が興奮してしゃべるのを、華音は試合を観たときと同じ高揚感を抱きながら聞いていた。
そしてまた、少し泣いた。そんなふうに自分も、彼と向き合って生きていきたかった、と。
「受け身であることは、決して弱さじゃないと私は思います。受け身をとりつづけられる人は、むしろすごく強いです」
志津子の視線が、華音を向く。その瞳はわずかに、潤んでいる。
「お母さまのことも、誰のことも否定する必要はありません。受け身のままで、大丈夫です。でも、立ち上がるときはひとりです。この人と自分で決めた相手に、全力で立ち向かってみませんか。……そのためのお手伝いなら、どれだけでも私たちがしますから」
すん、と鼻をすすって志津子は、ふたたびリング上の、肉体をぶつけあう男たちに視線を戻す。3カウントをとられかけたイギリス人選手に華音が「かえせ!」と叫ぶと、隣で志津子が「がんばれ」と彼女にしては太い声でつぶやくのが聞こえた。
(イラスト=野々愛/編集=稲子美砂)
■橘もも(たちばな・もも)
2000年、高校在学中に『翼をください』で作家デビュー。オリジナル小説のほかに、映画やドラマ、ゲームのノベライズも手掛ける。著書に『それが神サマ!?』シリーズ、『忍者だけど、OLやってます』シリーズ、『小説 透明なゆりかご』『リトルウィッチアカデミア でたらめ魔女と妖精の国』『白猫プロジェクト 大いなる冒険の始まり』など。最新作は『小説 空挺ドラゴンズ』。「立花もも」名義でライターとしても活動中。
(イラスト=野々愛/編集=稲子美砂)
※本連載は、結婚相談所「結婚物語。」のブログ、および、ブログをまとめた書籍『夢を見続けておわる人、妥協を余儀なくされる人、「最高の相手」を手に入れる人。“私”がプロポーズされない5つの理由』などを参考にしております。