望月彩羽インタビュー 安室奈美恵楽曲作詞や「IROHA TAROT」など経て、アーティスト活動本格化に至るまで
JUSMEというペンネームで、安室奈美恵や安良城紅(BENI)などの作詞を手掛けていた女性が、自身が作詞した安室奈美恵「Four Seasons」を望月彩羽という名義でセルフカバーし、6月22日にリリースした。
彼女は、女性を中心に多くの支持を集めるタロットリーディングのYouTubeチャンネル「IROHA TAROT」の主であり、画家や作家としても才能を発揮するマルチクリエイター。今年1月からはirohaという名義でシングルも5曲リリースしている。今回のインタビューでは、彼女の音楽キャリアを振り返りながら、知られざる安室奈美恵とのエピソードや、irohaで表現する世界観、望月彩羽として見つめる未来など、さまざまなトピックを語ってもらった。(猪又孝)
安室奈美恵「Four Seasons」での作詞家デビューまでの道のり
――まずは望月さんの人生で一番古い音楽の記憶から教えてください。
望月彩羽(以下、望月):子どもの頃、母と叔母が松田聖子さんが好きで、私をコンサートに連れていったそうなんです。そのときの記憶が鮮明にあって、ステージにキラキラしている誰かがいるという光景をいまだに覚えています。そこからステージにあがって人から注目されるキラキラした人になりたいという気持ちが芽生えたみたいで。それをきっかけに松田聖子さんが好きになって、CMで流れていた「SWEET MEMORIES」が好きになり、その曲が英語だったから英語で歌う人に憧れるようになりました。
――それは幾つの頃ですか?
望月:3歳とか4歳くらいだと思います。あとは、父が音楽好きで、家にCarpentersとかの洋楽のレコードが山ほどあって。自分でレコードをかけて一緒に歌っていたので、幼い頃から英語で歌うことは自然なことでしたね。
――プロフィールによると15歳で単身イギリスに留学したそうですね。
望月:通っていた学校が芸能活動禁止だったんです。英語で歌えるシンガーになりたいと思っていたので、その学校にいたら芸能活動ができないと思っていて。たまたま、そのときに同じクラスの女の子が父親の仕事の都合でイギリスに留学することになったんです。それを知ったときに私も留学すればこの学校から出られると思って(笑)。それで高校1年のときに留学して、イギリスの大学に進学しました。
――日本にはいつ頃帰国したんですか?
望月:大学ではビジネスを専攻していたんですけど、やりたいことは音楽だったので、1年間のギャップイヤー制度を利用して日本に帰ってきて。そのときに、アメリカ留学から帰ってきて日本で音楽をやっている男性と知り合って、彼と組んで音楽をやり始めました。そのときに知り合った男性がMONKなんですよ。
――MONKさんは安室奈美恵さんの「Four Seasons」や「ALARM」などを手掛けたトラックメイカーで、よく作詞作曲コンビを組まれていましたよね。
望月:MONKはR&B/ヒップホップ大好きっ子だったんです。それでR&B/ヒップホップをやりたいから、そういう歌を勉強してほしいと言われて。私はマライア・キャリー、セリーヌ・ディオン、サラ・ブライトマンみたいな王道のポップスが好きだったんですけど、とにかく歌がやりたかったから、それはそれで面白いと思って勉強し始めました。
――ユニット名を付けて二人で活動していたんですか?
望月:Moon Divaというユニット名で活動していました。
――JUSMEというペンネームを使って作詞家として歩み始めたきっかけは?
望月:MONKと二人でとにかくデモテープを作りまくって、デビューを目指してあちこちに送っていたんです。そしたらレコード会社から連絡が来て、楽曲を気に入ったから安室さんの次のコンペに出したいという話になって。私は当時二十歳だったんですけど、まずは作詞家として頑張ってデビューの道を探ろうかなと。
――安室奈美恵さんの「Four Seasons」が作詞家デビューですか?
望月:そうです。私たちの曲を気に入ってくれているという話から、「Four Seasons」のコンペに参加してみないか? と誘われたんです。しかも突然。締切は3日後、みたいな(笑)。
――「Four Seasons」は、どんなオーダーだったんですか?
望月:アニメ映画『犬夜叉 天下覇道の剣』のテーマソングだったので、和の要素を入れてほしいと言われた記憶があります。そこから私がイメージを膨らませて、日本は特に四季が感じられる国だから、大切な人との思い出を四季の移ろいと共に振り返る歌詞にしようと。それで「Four Seasons」という曲名にしました。
――かつての恋人を追憶するラブソングですが、〈I can taste the sweetness of the past〉という1節も出てくるから苦い思い出ばかりじゃなくて、甘い記憶でもあるんですよね。
望月:そう。悲しくて切ないだけじゃないんです。自分にとって大切なものは、今、目の前にないけど、その思い出はすごく大切にしていきたい。その思い出が今の自分を作っていて、これから先の自分も導いていく、というような。私なりに安室さんの人生に重なるように書きました。
作詞法は“インスピレーション型” 安室奈美恵との印象的なエピソード
――「Four Seasons」は当初、アルバム『STYLE』に収録された1曲でしたが、その後、バラードベストアルバム『Ballada』にも収録されるなど人気曲になりました。そのことをどう受け止めていましたか?
望月:私の作詞法は思考型というよりインスピレーション型で、音楽を聴いているうちに音と一緒に文字が見えてきて、それを書き留めていく感じなんです。自分の思いを投影して書くことがないから、できあがった歌詞が良いのか悪いのか、正直、自分でわからないというか(笑)。だから、最初は「Four Seasons」の歌詞を良いと言ってくださる方がいるというのが信じられなくて。嬉しいというよりも「そうなんだ」という感じでした。
――「Four Seasons」に続いて、安室さんには「ALARM」の歌詞を提供します。「ALARM」はどんな流れで作ることになったんでしょうか。
望月:「ALARM」もコンペでした。CMタイアップ(マンダム「LUCIDO-L プリズムマジックヘアカラー」)がついていて、かっこよさとセクシーさを求められていました。で、最初は「ALARM」のカップリングに入っている「STROBE」を提出したんですよ。そしたらスタッフさんから、「STROBE」もいいんだけど、ちょっと違うと。「もうちょっと絞り出してもう1曲書いてみないか?」と言われて。でも、リアルに提出の締切がその翌日だったんですよ。そこからMONKがトラックを作って、私のところに送られてきたのはいいけど、そのあとの歌入れを考えると歌詞を書く時間なんて3時間もない、みたいな(笑)。
――またも超特急案件(笑)。
望月:なので、とりあえず時計を目の前に置いて、どうしよう? と。フックのメロディになにも言葉がハマらないじゃん、と思っていたときに、時計の音がチクタクと聞こえてきたんですよ。で、「あれ? これ、ハマらない?」と思って、そこからフックが〈tick tack lady, tick tack baby〉とできていって。そのあとは一気に言葉が降ってきたので、大枠は1時間くらいで書き上げました。そのまま私がガイドの歌入れをして送ったら採用されて。MONKと「タイトルはどうする?」と話したときに、「チクタクだから『ALARM』じゃない?」って(笑)。
――当時、安室さんとの交流で印象的なエピソードはありますか?
望月:「Fish feat. VERBAL & Arkitec (MIC BANDITZ)」を書いたとき、私が最初に書いた歌詞は、音楽業界の頭の固いおじさんたちに対するディスだったんです。それを“太古の魚たち”などの比喩表現で書いていて。そしたら見事に、そのおじさんたちに「もっと女の子っぽい恋愛の歌詞に書き換えて」と言われて、丸ごと書き換えたんですよ。そしたら安室さんが「もともとのデモテープの歌詞がかっこいいのに、なんで変えたの?」と、私のもともと書いていた歌詞を採用してくださったんです。
――当時、安室さんは他の曲でもそれまでと比べて挑発的な歌詞を歌っていましたよね。小室哲哉プロデュース時代からSUITE CHICを経て、アイドル的な見られ方から脱却しようとしていた時期だから。それこそ初のセルフプロデュース作となった『STYLE』の1曲目「Namie’s Style」(作詞:T.KURA・MICHICO)でも〈やってられない 好きに書けば!?〉〈この貫禄見てよ! strike a pose/I am #1〉と堂々歌っている。
望月:たぶん、安室さんのその感覚と、私の歌詞がマッチしたんだと思います。
――JUSME名義では、安室さん以外に安良城紅(BENI)さんの作詞も多く手掛けていましたよね。
望月:MONKと作った「Harmony」がBENIちゃんのデビュー曲に採用されて。デビューイベントを観に行ったときに、歌詞がいいからこれからもお願いしますねって言われて、そこからコンペには毎回誘ってくれるようになったんです。コンペを毎回勝ち抜いていたからエイベックス時代のBENIちゃんのシングルはほぼ書いていますね。当時、BENIちゃんとは密に会って話したりして、なるべく彼女を投影した歌詞を書いていました。
――その後、MONKさんとのユニットや音楽活動はフェードアウトしていったんですか?
望月:徐々にユニットが上手くいかなくなっていったんです。ユニットを解消した後、私はしばらく作詞家として活動していたんですけど、癌を患った父親と最期まで過ごしたくて、コンペの話が来ても引き受けずにいた時期があって。父は音楽を続けてほしかったみたいなんですけど、ふわふわした状態で音楽をやってる場合じゃないから、けじめをつけようと。それで一旦、音楽からも離れることにしたんです。