the band apart 木暮栄一「HIPHOP Memories to Go」第16回 震災を経て一変した価値観、日本語詞挑戦に至るまでの秘話も
東日本大地震がthe band apartの音楽性に与えた大きな影響
2022年12月某日。冬は好きな季節だ。
さらに言えば、どことなく街中が忙しない雰囲気の年の瀬が最も好きである。コロナ以降、外へ飲みに出かける習慣がほとんどなくなってしまったが、この時期だけは不意に熱燗が飲みたくなったりする。
例えば今日のような風が冷たい日。昼飯を食いにいつもの蕎麦屋に入って畳敷の小上がりに座るなり、「燗酒一合と焼き海苔」とか口走りそうになる……のを、理性で押し止める。冬のおでんもいいよね。大根に厚揚げ、餅巾着。
先日ツアーで行った盛岡では、素敵な雪景色の中を歩いて打ち上げの店に行き、牡蠣などを食べた。翌朝もまだ粉雪が舞っていたが、我々程度にバンドのキャリアがあれば、ツアーにおける雪中行軍も慣れたものである。
スタッドレスタイヤに履き替えたハイエースのハンドルを握る川崎亘一(Gt)。豪雪に備えてタイヤチェーンも積んである。原昌和(Ba)は後部座席で寝ている。荒井岳史(Vo/Gt)は所用があると言って朝一の新幹線で帰っていった。こんな車中風景も20年間ほとんど変わっていない。もっとも今は色々と便利なものがあるから、車窓に流れる景色に想いを馳せる代わりに、ダウンロードしておいた映画『mid90s ミッドナインティーズ』を観たりすることができる。
2011年はどうだっただろうか。僕が東日本大震災の初報に触れたのは東名高速道路上の車中だった。
マネージャーKの家族から、「すごい地震があった」という電話があり、Twitterのタイムラインに次々と上がるツイートで状況の深刻さを悟っていった記憶があるから、その頃はもうスマートフォンを使っていたのだろう。
その日の夜に大阪でCHABE(松田“CHABE”岳二)さん主催のイベントがあり、僕はDJ、荒井が弾き語りという形で呼ばれていた。オールナイトのイベントだったので僕たちが大阪に着いたのは夕方、イベントの開始時間まで一旦ホテルで待機ということになった。そのホテルのテレビで僕は、その後何度も見ることになる津波が街を飲み込んでいく映像を見た。
アナウンサーが連呼していたのは大船渡という地名。僕たちthe band apartが活動初期から何度も訪れ、つい1週間前にも友人の結婚式に呼ばれて楽しい時間を過ごしたばかりの街の名前だった。途方もない現実に脳の処理速度が追いつかず、大船渡の友人たちに連絡を取ろうとして、タイムラインで見かけた「緊急ではない電話回線の使用は極力避けてほしい」というツイートを思い出し、何通かメールを書いたりするうち、ふと夜の予定を思い出して、こんな時に呑気にDJなんかしていて良いのだろうか、といてもたってもいられず早めに会場へ行くと、出演予定のメンバーがすでに大半集まってきていたのだった。皆思うところは同じだったのだろう。そしてこの「不謹慎」という認識がもたらす「自粛」ムードは、この後もしばらく続くことになる。
しかしこの夜に関して言えば、CHABEさんの「こういう時だからこそ音楽を鳴らそう」「売り上げは全てチャリティでしかるべき先へ寄付しよう」という説得力のある提案によって、イベントは通常通り行われた。
CHABEさんのポジティブな態度は、僕個人のその後の考え方に先鞭をつけてくれた。直接被災していない僕たちが落ち込んでいる場合ではない。
それからしばらくして僕たちは『detoxification e.p.』というチャリティシングルを作った。関わってくれた全ての人が、それぞれの役割を無償で引き受けてくれ、売り上げは被災した子どもの心のケアを行っていたNPOに全額寄付することとなった。
さらに『KESEN ROCK FESTIVAL』の開催を支援するライブイベント『KESEN ROCK TOKYO』を『MUSICA』の鹿野(淳)さん、新代田FEVERの西村(仁志)くんと共催し、出演を快諾してくれた友人たちの助けもあって、僕たちだけでは集めきれなかったであろう金額を実行委員会に渡すことができた。
震災直後は本当の混乱状態だった。
被災地の悲惨な状況は各メディアから伝わってくる。多くの人が何か力になりたいと願いながらも、何をどうすれば良いのか分からないから、とりあえず行政に任せている。ボランティアのつもりで何の考えもなしに現地へ行ったとしても、食事や寝床の確保などを考えたらありがた迷惑なだけかもしれないし、もちろん自分たちの生活だってある。
そうした逡巡をいち早く排除して直接行動に移していたのが、TOSHI-LOWくんはじめBRAHMAN、そしてSLANGのKOさんだったと思う。彼らは自らが被災地に赴くだけに留まらず、現地の知人と連絡を取り合いながら、その時実際に必要な物資のリストを作り、それをSNSで告知し、集めた支援物資を直接必要な場所に届ける、という行動を取っていた。
さらに前回にも少し書いたが、僕たちのライブ音響を担当してくれているPAチーム「SPC」の西片明人氏は、被災地にライブハウスを建てると言い出して、様々な人の協力を得ながら実際に3軒ものライブハウスを建ててしまった。
そんなことができる人間が何人いるだろう?
僕は元々、年上というだけで上から目線の人間が好きではない。しかし、この時期には数々の年上の人間の背中からいろいろなことを教わったし、そのことだけで一生尊敬できると今でも思っている(余談ですが、般若の「何も出来ねえけど」を聴くと、この時期のことを鮮明に思い出します)。
震災から半年後に原が体調を崩した。
病状的にしばらく入院・静養しなければならなかったため、すでに決まっていたライブには、主に僕と荒井の2人アコースティック形態で代替出演することになった。the band apartの楽曲の性質上、アコースティックギターとパーカッションだけでは成立し難いものが多かったので、2人で演奏しても成り立つように数曲セルフアレンジを施すことにした。
荒井と2人で「K.and his bike」をリアレンジした際に、歌い回しを微妙に変えたことによって元の歌詞がハマらない箇所が出てきた。その時に「歌詞を添削し直すくらいなら、いっそのこと元の英詞を意訳して日本語にしてはどうか」というアイデアを思いついた。そうして生まれたセルフカバーが「Kと彼の自転車」(荒井岳史『sparklers』収録)や「forget me not pt.2」で、この時の経験がバンドにフィードバックした結果が、のちのthe band apart (naked)であり、バンドの新曲における日本語歌詞の採用である。
震災は多くのミュージシャンやバンドマンに、自分にとって音楽や表現とは何なのかを改めて考えさせる出来事でもあったと思う。
かく言う僕もこの時期に、自分たちの作る/作ってきた音楽に対して色々考えていた。そんな中で上述したチャリティシングル『detoxification e.p.』制作時、初めて英語で歌詞を書いている自分に違和感を持った。それまでも日本語で歌詞を書こうと思ったことがなかったわけではないが、これまでこのコラムで書いてきたように、僕たちの音源制作は毎回がギリギリの綱渡りだったので、作詞面での新たなトライアルに臨む余裕がなかった。
しかし震災直後のこの時は、自分たちの音楽を届けたい対象がある意味、通常より明確だった。被災した人たち、そして日本で暮らす僕たちと同じような人たち、である。さらに言えば、バンド活動を始めてから5枚のアルバムをリリースし、音楽的な好奇心はまだまだ尽きないものの、今まで全英語詞だったものを全て日本語にするという発想は、僕個人にとってとても刺激的なことに感じられた。
しかし、このアイデアが他のメンバーにすんなり受け入れられたわけではない。セルフカバーの制作を共にした荒井は前向きだったが、原と川崎はかなり面食らっていたと思う。
とはいえ、2人とも時勢に対して感じるところは大いにあっただろうし、前回書いたように我々の共通項でもある“寛容性”のおかげで、とりあえずe.p.サイズの音源を作って様子を見てみようというところに落ち着いたのだった。
そうした経緯を経て2012年にリリースされたのが『2012 e.p.』。Amazonのレビュー、あるいはMVにもなった「銀猫街1丁目」のYouTubeコメント欄に今でも残っていると思うが、初の日本語詞に対する当時の反応は賛否両論だった。今までリリースした作品はその当時を切り取った写真のようなものだと思っているから、周りから何を言われようと、そこには何の後悔もない。
しかし、僕個人としてはやはり賛否の“否”の部分をより強く受け取ると同時に、先人たちが苦心してきた日本語詞への取り組みに対する自分の甘さを痛感する契機になったのもまた事実だ。
そして、その時に感じ、考えたことが、今までとは違った楽曲に対する客観的視点を与えてくれた。英語の時とは全く異なる、歌詞の意味性と楽曲が持つ雰囲気のバランス。言葉の意味がダイレクトに伝わる分、バックトラックやメロディラインによる情感のブーストが演出過剰になってしまうことの回避。
『2012 e.p.』で得た感触を各メンバーがそれぞれ消化して試行錯誤し、ネクストレベルを目指した結果が、翌年にリリースされるアルバム『街の14景』(2013年)につながっていく。
今振り返ってこそ言えることだが、この時に始まった日本語詞への取り組みが自分たちの通常営業のツールとして完全に落とし込まれるまでには、それこそ英詞/日本語詞への意識的なこだわりがなくなる『Memories to Go』(2017年)までの時を要したのだった。
……何だか全体的に真面目な文章になってしまっているけど、日本語詞を取り入れていくプロセスは別にキツいことばかりだったわけではなく、むしろ使い慣れた言葉で自分たちのセンスに叶う歌詞を作っていく作業に新たなやり甲斐を見つけた部分も大いにある。何より、僕以外のメンバーが作詞をするようになったという点では、バンドにとって大きなプラスになったと思っている。