Karin.×三浦しをん、“愛とは何か?”を語り合う それぞれの創作活動で共鳴する感情の探求

「私の知っていたのとはまた違う愛の形に触れられた」(Karin.)

Karin.:『きみはポラリス』を読んだとき、恋愛小説集ではあるんだけれど、描かれる愛はどれもとても尖っていて、本人たちは愛とすら認識していないんじゃないかという感じがすごくおもしろかったです。『天国旅行』を読んでいて、しをんさんにとって“愛”とは、生きることや死ぬことと同じ場所にあるものなのかなと感じたのですが、いかがですか?

三浦:激しくなければ愛じゃない、と思っているフシはありますね。テーマパークにデートに出かける、みたいなこともすごくいやで、そんなことをしている暇があったら家で一人でマンガを読んでいたいんですよ。その人と話しているだけで感情の火花が散ったり、ふだんの自分なら考えもつかないような突拍子もない行動に出てしまったり、そういうのがない限り愛とはいえないんじゃないか、と思ってしまう。テーマパークでのデートを否定するつもりはないんですけどね。私個人は、一緒にごはんを食べましょう、みたいなこともめんどくさい。そこに火花が散らない限りは。

Karin.:そうなんですね(笑)。

三浦:だから、『きみはポラリス』も『天国旅行』も「ちょっとは落ち着け」と言いたくなるような主人公が、落ち着かないラストを迎える話が多いんだと思います。自分がそうありたいからなんでしょうね。まあ、実際にそうなったら、振り回されることばっかりでいやになるだろうけれど(笑)。

Karin.:でもちょっとわかる気がします。『星屑ドライブ』のカップリングに「嫌いになって」という曲があるのですが、私は、みんなに嫌いになってほしいと思っていた時期があって。

三浦:なぜに!?

Karin.:誰かから愛を与えられたときに、求められた自分になれる気がしなくて……できなくてごめんなさいと、自分から身をひいてしまうこともあったんですけど。でも、それでも夢中になってしまう愛というものに、すごく惹かれるんです。だから、嫌いになってほしいと言うきみも全部好き、という歌詞を書きました。

 しをんさんの小説で『私が語りはじめた彼は』がとくに好きなんですけれど、〈愛ではなく、理解してくれ。暗闇のなかできみに囁く私の言葉を、どうか慎重に拾ってくれ。〉というセリフがあるじゃないですか。なぜ、愛ではなく理解、だったんですか? 私にとって、愛と理解はとても近しいものなのですが……。

三浦:たぶん、多くの人が愛だと思っているものは実は思い込みに過ぎなくて、自分の見たい姿を相手に反映しているだけなんじゃないかと思っていたからだと思います。私自身が誰かを愛するときも、ただ自分の影を愛しているだけのように思えて、すごくいやだったんです。愛とか、甘ったるい言葉を抜きにして、もっと冷酷なまでに相手を分析することで理解していくほうが、本当は大事なんじゃないのかな、と。愛がなければ、そんなふうに分析し続けることもできないんですけどね。あとは、愛ではなく分析による理解を重ねれば、自分とは遠い立場、視点でものを考えている人のことも、ある程度は受けとめられるようになるんじゃないか。やみくもに、わからないものを排斥しないで済むんじゃないか、という気持ちもありました。

Karin.:ちょっと話がズレるかもしれないんですが、学生時代にまわりから「それは恋だよ」みたいに言われるのがすごくいやで。そんなわかりやすい言葉にあてはめて、わかったような気にならないでくれ、と。愛って、形の見えにくいものだと思うんです。だからこそ憧れて、夢見て、曲を作ることもたくさんあるんですけど、それもまたしをんさんの言う、冷酷な分析に似た行為なのかな、とも思います。甘ったるい言葉でカテゴライズするのではなく、自分らしく、自分だけに見つけられるものを探していきたい。そういう孤独を私はずっと生きていくしかないんだな、と。

三浦:ただ、歳を追うごとにだんだんどうでもよくなってくる部分もあって。愛してくれるなら誰でもいいよ、理解とかめんどくさいわ、みたいになる自分もいるんです(笑)。その時々によって揺らぐのもおもしろいです。

Karin.:『愛なき世界』は、これまでの作品とはちょっと違う心の輝き方を見せてくれる小説でしたよね。植物という、愛の存在しない世界での研究に没頭し、自身の恋愛にもまるで興味のない本村(紗英)さんと、そんな彼女を好きになってしまった藤丸(陽太)くん。でも実は、本村さんの触れている世界がどれほどの愛に満ちているのか、それがわかったときに私自身も世界の見え方が変わるというか、私の知っていたのとはまた違う愛の形に触れられたことが、嬉しかったです。

三浦:そうおっしゃっていただけて、私のほうこそうれしい……。Karin.さんは孤独とおっしゃいましたが、それが生きるものとして本来の姿なんじゃないかと思うんですよね。たまに出会った相手と、ふんふんと匂いをかぎあって、また去っていく。そのくりかえし。とくに人間は社会的な生き物だから、喧嘩したわけでもないのに疎遠になっちゃう友人とかいますけど、二十年後くらいに、たとえば家が近くなったとか、些細な理由でまた交流が復活したりする。人生のイベントもいろいろとひと段落したからこそ、前以上に深く話せる関係になれたりもする。基本的に孤独だからこそ、たまの連帯が楽しく、共有できる瞬間を慈しむことができる。そういうことの積み重ねで私は人生を終えたいなと思うんです。だから、ちょっと男女が仲良くしていたら「それは恋だよ」みたいに囃し立てるのは、私も、とてもいや(笑)。

Karin.:いまお話を聞いて『ののはな通信』のことを思い出しました。中学時代に出会ったののとはなは、距離が近づきすぎて、ある瞬間に破裂してしまい、大人になってから再びめぐりあうわけですが……。私にもすごく大切に想っている女の子がいて、彼女も私のことをそう想ってくれているのは、わかっている。だからまわりは“親友”って言葉にあてはめようとしてくるんですけど、私にとって彼女は彼女でしかないんですよね。想いが等分になることはめったにない、ってしをんさんはおっしゃいましたけど、私の想いのほうが彼女よりずっと大きくたって、かまわないんです。ただ、どこにもカテゴライズできない特別な存在として、親しくしていきたい。仮にそれが男の子だったとしても、同じだと思うんです。それなのにみんな、どうしてわかりやすく、親友とか恋人とか区別したがるんだろうというのが、とても不思議。そんななかで読んだ『ののはな通信』は「これだよ、これ。こういうことなんだよ!」と思える描写がたくさん詰まっていて、夢中になってしまいました。

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