ドクター・ドレーはいかに“歴史”の創造者となったのか? ハーフタイムショーを前にその功績を確かめる
1995年、コンプトンで1人の少年が、父親とともに“歴史”を目撃していた。
当時、少年の目の前で撮影されていたのは、2パックのアルバム『All Eyez On Me』収録の先行シングル曲「California Love」のMVだ。長く、西海岸のアンセムとして愛されることになるこの曲のMV撮影には、翌年にラスべガスで銃弾に倒れることになる2パック、そして客演、プロデューサーのドクター・ドレーがいた。歴史的名曲のMV撮影と2人の天才の姿をその目に焼き付けた、文才に長けたその少年。彼は後にケンドリック・ラマーとして、コンプトンを代表する存在となる。
ケンドリックが幼少期に経験した、この有名なエピソードから27年の時が経つ2022年、今年もスーパーボウルの季節がやってきた。但し、毎年注目されるハーフタイムショーの今年のメンバーはいつも以上に巷を騒がせている。そのメンバーとはエミネム、スヌープ・ドッグ、メアリー・J. ブライジ、ケンドリック、そしてドレーだ。まさに新旧の伝説が揃ったこの座組みに、ヒップホップの歴史を感じない者はいないだろう。あるいは若きケンドリックに衝撃を与えたその男、ドレーこそ歴史と言えるかもしれない。本記事ではそんな彼にフォーカスしていく。
音の探求者としてのドクター・ドレー
ドキュメンタリーシリーズ『ディファイアント・ワンズ:ドレー&ジミー』(Netflix)にて、ドレーの母親は幼少期の彼に関して、「音楽はあの子から生まれたのではないかと思うほど、とにかく“音”が好きだった」と語る。
まず何よりも、ドレーはヒップホップの音の探求者である。80年代後半に、西海岸の伝説的ヒップホップグループ・N.W.Aでメインプロデューサーとして活躍し、数々のクラシックを手がけてきたドレーは1991年に同グループを脱退。その翌年、ソロ活動としての1stアルバム『The Chronic』をリリースする。生音使いと巧妙なサンプリングの数々が特徴的なこの作品は、現在においても新鮮でクリアな音像を響かせ、ヒップホップ史の最重要作の1枚として名を残す。
この歴史的な名盤を生み出した後、2ndアルバム『2001』(1999年)でも、自身の音楽的スタイルを洗練させつつ、ドレー史上でも最上級のマスタリングを実現。前作と同じく、後のヒップホップの流れに大きな影響を与えている。
2枚のソロアルバムでヒップホップの録音とジャンルを刷新したドレーは、その後、2015年にリリースする『Compton』まで(この年にはF・ゲイリー・グレイ監督によるN.W.Aの伝記映画『ストレイト・アウタ・コンプトン』も公開されている)、長い間、正式なソロ名義でのアルバム作品を出さずにいた。その中で、2008年にはジミー・アイオヴィンと共同でBeats Electronicsを設立。LAを走る無数の車の中で、大音量かつクリアに響くような音楽作品を創造してきたドレーが、オーディオ産業に参入し、人々の聴取環境までをも設計し始めたのは、彼が音の探求者であることの証明だろう。ドレーとアイオヴィンという2人の名プロデューサーが開発しただけあって、製品自体も当然のように高品質。特に低音を強調したその出来はまさにドレー自身の音楽を聴かせるために作られたかのようである。
レブロン・ジェームズやレディー・ガガなど、各方面のスターを製品に関わらせたマーケティングによりブランド化も大成功。たちまちその発明品は多くの人々の耳にクリアな音を響かせた。今や、映画やドラマを見ても、登場人物たちの耳元を、小文字の“b”が描かれたヘッドフォンが覆っている。
製品の開発とそのビジネスにおいても成功を収めたドレー。音楽作品を作るアーティストの顔とオーディオブランドの共同設立者としての顔。この2つに共通しているのは、いつでも“良い音”を探求し、それを妥協することなく創造するところにある。