宇野維正が出会った“特別”としか言いようがない曲ーーすべてが不明のアーティストPii「カキツバタ」の衝撃
「特別」としか言いようがない曲に出会った。アーティスト名はPii。曲のタイトルは「カキツバタ」。同曲は、3月31日にJ-WAVEの番組で初めてオンエア、翌4月1日から「はじめましてver.」として1分40秒のショートバージョンがYouTubeにアップされている。全国13局のラジオ局でパワープレイされているので、ラジオで耳にしたことがある人もいるかもしれない(自分も4月19日に選曲を担当したJFN系列全国23局の番組で4分6秒のフルバージョンを流した)。もっとも、この原稿を書いている4月25日の時点でPiiのTwitterアカウントのフォロワーは160人、Instagramアカウントのフォロワーは276人、YouTubeチャンネル登録者は279人。知る人ぞ知る存在というより、まだほとんど知られていない存在と言っていい。
Piiについてわかっていることは少ない。いや、実際のところほとんど皆無だ。YouTubeの「はじめましてver.」に記載されているクレジットによると、作詞、作曲、編曲はYamanashi AyumiとSera Masumiという二人のミュージシャンによるもので、アニメーションは「タムくん」ことウィスット ポンニミットが、アーティストロゴはMargt(マーゴ)がそれぞれ担当している。ウィスット・ポンニミットは、細野晴臣やくるりやSAKEROCKのアートワークやミュージックビデオも手がけてきたタイ・バンコク在住のマンガ家。Margtは、TempalayやchelmicoやTENDREのミュージックビデオも手がけてきたニューヨーク・ブルックリンを拠点とするクリエイティブユニット。なにやらコスモポリタンな感じだが、楽曲自体は日本の70〜80年代の歌謡曲やフォークミュージックを彷彿とさせるノスタルジックなテイスト。そして、肝心のソングライターであるYamanashi AyumiとSera Masumiの正体は不明。メインボーカルは女性(コーラスでは男性の声も聴こえてくる)だが、その女性がソングライター2人のうちの1人なのか、それとは別のシンガーなのかもまったく不明。少なくとも現時点では本当にすべてが不明、不明、不明なのだ。
さて、「70〜80年代の歌謡曲やフォークミュージックを彷彿とさせるノスタルジックなテイスト」と書いたが、それはあくまでもメロディラインのこと。「カキツバタ」はアレンジ、歌声、歌詞と、他のほとんどすべての要素が実は新しい。例えばアレンジ。ギター、ベース、ドラム、オルガンという基本構成はオーソドックスなものだが、コーラスのパートで入る絶妙なヴィブラフォンの(ような)音、そしてドラムの奇妙な音処理に耳を奪われずにはいられない。
特に、基本的には何の変哲もない8ビートながらキックやスネアの音がやけにクリアなドラムのサウンドには、途中から突然まるでハウスミュージックのようなフィルターのエフェクトまでかけられている。そうしたエレクトロニックミュージック的な仕掛けはこの曲の隠し味になっていて、終盤から曲の背景で主旋律からはみ出して奔放に暴れまわるアナログシンセのサウンドに耳を傾ければ、この編曲をしている人物がただ者じゃないことに気づくはずだ。アレンジでここまで斬新なことをやってるのに、それをポップスとしてさり気なく聴かせている一つの要因は、メインボーカルの女性の非常に高いレンジで歌われている声があまりにも心地よくて、恐ろしいほどの吸引力があるからだろう。
そして、自分が「カキツバタ」で最も驚かされたのはその歌詞だ。もっと厳密に言うなら歌詞と、その歌詞とメロディとの絡み方。例えば〈ガラス張りの街の ガラス張りのDJブースに立つ〉という、それだけでパッと情景が目に浮かぶものの、その目に浮かんだ情景がどこか非現実的という、不思議な感覚に陥るファーストヴァースの歌い出し。そこからの〈そっと落ちていた 電源を入れる〉の〈電源を入れる〉のゆるやかに下降していくメロディのユニークさ。ちょうどその部分には男性コーラスが重なってくるのだが、その瞬間、自分は心臓を鷲掴みにされてしまった。