「日本(語)のうたを考える」第1回
imdkmによる新連載開始 第1回:NiziU、Moment Joonらに見る“日本(語)で歌う”意義と質の変化
これらの例は、コインの表裏にあるふたつの現象を示唆している。第一には、日本でつくられ、歌われるポップミュージックに日本語(あるいは「外国語」としては例外的に承認された英語)以外の言語が交わりはじめている、もしくは交わりなおしているということ。第二には、日本語がすなわち日本人という国籍や自明のアイデンティティと結びついたものとしてではなく、さまざまなバックグラウンドを持つ人びとが使う言葉としてあらわれているということ。いわば「日本で歌うこと」、そして「日本語で歌うこと」のもつ意義とその質が、それとなく変化しているのである。
2019年の拙著で掲げつつも匂わせる程度でおわってしまった主題のひとつに、日本における「J-POP以後、J抜きのポップ」の可能性の提示があった。もはや「J」は単一の自明な「日本」を指すことはできず、むしろ「ポップ」の雑食性のもとで、「J」が解体・再編成されていくのではないか。そうした予感はある程度当を得ていたように思う。
「J(-POP)」をガラパゴス的なぬるま湯ではなく、むしろ、ある種の緊張やコンフリクトを引き起こす場として機能させる。そのための地ならしとして、しばらくのあいだ、日本のポップミュージックにおけることば=うたについて考察することとしたい。そこでの試みは、必ずしもここまで述べてきたような問題意識と直結するようには見えないかもしれない。しかし、少しずつ日本(語)のうたについて考え、歩みを進めるうちに、どこか遠くの、しかしあまりにも身近な地点にたどり着くのではないかと思う。
おおよそ、次の三つのトピックを大きく据えて、あちらこちらへと飛び移りつつ進んでいくつもりだ。第一には、前著から引き続いてリズムに焦点をあてた、「音律/韻律」。第二には、日本における歌詞の受容について考える「物語性」。第三には、すでにここまでに述べてきたような問題をもっともじかに扱う「多言語的状況」。たとえば七五調や押韻といった問題は「音律/韻律」において扱うだろうし、「物語性」においては歌詞の提示するナラティブがどのように受容されるかを通じて応援ソングや愛国ソングといったものに触れることになるだろう。そして、「多言語的状況」においては、日本語(及び英語)の専有という事態に対する批評的な介入が試みられる(はず)である。
以上、本連載の見通しを述べてきた。次回からは、七五調をはじめとする日本語の音律とポップミュージックの関係性を考えるところからスタートする。
■imdkm
1989年生まれ。山形県出身。ライター、批評家。ダンスミュージックを愛好し制作もする立場から、現代のポップミュージックについて考察する。著書に『リズムから考えるJ-POP史』(blueprint、2019年)。ウェブサイト:imdkm.com