『シエラのように』インタビュー
10-FEET、続けてきたから歌えるど真ん中の1曲「シエラのように」「説明するんじゃなくて感じてもらえる力こそロック」
10-FEETがニューシングル『シエラのように』をリリースした。素晴らしい作品である。ストレートな力強さだけでなく、どことなく憂いや切なさが滲むメロディ、繊細な言葉を丁寧に届ける歌も特徴だ。3人が口々に話している通り、「ありそうでなかった曲」である。
バンド結成から23年、10-FEETはより純粋に“音楽”であろうとしているのかもしれない。TAKUMA個人の経験を昇華して、時には自身の弱みも曝け出すことで、悲しみや苦しみの先を照らすように歌ってきた10-FEETだが、今回の曲にもそんな“らしさ”がありつつ、より一人一人の置かれている状況によらず響くもの、何気なく瞼を閉じた一瞬の出来事について歌われているような感じすらするのだ。今を生きるあらゆる人々に、この曲がオーバーラップする瞬間がきっとあるはず。と同時に、それは現状維持に甘んじることなく、作品ごとに新しい扉を開き続けてきた10-FEETの次なる一手が、ロックバンドとして、ますます時代と人々の心を捉えるものになってきているからなのかもしれない。大切に胸のうちで解いていきたい新曲「シエラのように」について、メンバー全員で語り合った。(編集部)
「楽器も一緒に歌っているイメージがある」
ーー『京都大作戦』のない夏が終わったなかで、新曲が出るということ自体が本当に嬉しいニュースです。「シエラのように」は何よりメロディの素晴らしさと、それに乗ってスッと入ってくるような言葉が印象的な楽曲ですが、どのように着手していったんでしょうか。
KOUICHI:デモが他にも何曲かあって。全部よかったんですけど、なかでもこの曲がすごくいいと思いました。これを3人で意見をぶつけ合いながら作ってアレンジしていったら、どんな風になるのかなっていう期待度が一番高かった曲ですね。
ーー前作の「ハローフィクサー」もかなり新しい音像でしたし、アルバム『Fin』に至るまでは歌に重心を置いたシングルが続いていましたけど、「シエラのように」は10-FEETのなかでどういう方向性の曲だと感じていますか。
KOUICHI:どうやろうな......一番最初に聴いたときに「ありそうでない曲や」ってほんまに思って。テンポ感だけでいったら「蜃気楼」とか、他にも近い曲があるんですけど、パッと聴いたときにメロディのテンションが上がりきらないというか。マックスまで行ききらずに、微妙なニュアンスの塩梅を上手いこと使い分けてるメロディやなと思って。それを新しいというのかわからないですけど、すごく可能性を感じました。
TAKUMA:あぁ......上手に言うなぁ(笑)。
KOUICHI:「ハローフィクサー」やったら、お客さんの反応もちょっとは想像できたんですけど、今回の曲は本当に予想ができない不思議な曲やと思います。ちょっと影がある感じもするし、そこに惹かれたのかなと思いますね。
ーーNAOKIさんはいかがですか?
NAOKI:いろいろアレンジしながら進めていったんですけど、少しずつリード曲っぽくなっていったというか。何曲かあったなかで、広がりが一番大きかった曲という感じです。特にサビに感じる匂いというか、切なさとか土臭さみたいなものは、10-FEETで今までありそうでなかったものだと思いました。
ーー晴れてはいるけど100%の快晴ではなく、ちょっと雨が降るかもしれないくらいの何ともいえない感覚を自分も感じた曲でした。リズム面では優しい印象もありますよね。
NAOKI:そうですね。シンプルに歌を引き立ててはいるんですけど、自分は楽器も一緒に歌っているイメージがあって。ちょっとコーラスに近いのかもしれないです。曲が持っている切なさとか、景色が霞んだ感じを、演奏することで一緒に歌い上げているイメージがありますね。
ーー面白いですね。TAKUMAさんはこの曲の空気感をどのように捉えているんですか。
TAKUMA:まず作ったときに「何かを伝えよう」とか考えてなかったんですよ。深く酔っぱらってるときに、「なんか歌って」と言われてギター渡されて、ジャーンって鳴らしてみたときに感じる「今、こういう気持ちやわ......」みたいな曲なんです(笑)。寂しいとき、辛いときに「こういう曲があったら自分は元気出るな」というのが、何にも考えずにバッと溢れ出てきた曲だったんですよね。だからこの曲ができたきっかけって、過去の曲全部やなとも思うんです。いい曲を作って、いいライブするためにずっと考えてやってきましたけど、そのなかで何か見出したというよりかは、「こうやろ」と思ってスッと出てきた曲やなって。
ーー今の自分たちなりの落とし込み方に、確証が得られた感じなんでしょうか。
TAKUMA:たぶんね、そういうことも考えてないと思う。
ーーでは、逆に「シエラのように」に至るまでを振り返ると、ソングライティングの変化としてどんな流れがあったんでしょうか。
TAKUMA:うーん......曲のネタを作るときに、10-FEETとして僕らができること、やるべきこと、やったら面白いことを考えながら作っていくのも、とてもいいと思うんですよ。でも、例えば、10-FEETでやらなくても違う人が歌ったら行けるかもしれへんとか、弾き語りでやってみたらいいかもとか、10-FEETという枠を全く考えずに作ることによって、何か新しいアイデアが生まれるかもしれんっていうのは、ここ数年ずっと思っていることで。それで「ハローフィクサー」みたいな、面白い偏りのある曲ができたっていう経緯もあるんですけど、今回もそういう作り方をしていて。10-FEETで採用される/されないってことを考えずに作るのが、「10-FEETのTAKUMAがやるべきこと」としていいことやと思ってるんです。
ーーなるほど。
TAKUMA:今回の曲って、ものすごく簡単に言ってしまうと「ど真ん中のただのロックやん」とも取れる曲調やと思うんですけど、自分たちがいろいろやってきたことによって、単なるロックにならない感覚があって。それは別に変化球でもなくて、そういう枠を飛び越えて「ええやん!」と思ってもらえるものづくりに結びついた気がしたというか......ネタ作りの段階で「これ、誰がやってもええ感じの曲になるかもしれんな」って思ったんです。でも、それって「結局誰がやっても同じやん」っていう投げやりなことじゃなくて、世の中にある名曲って、やっぱりカラオケで誰が歌っても感動する一面があるじゃないですか。「そういう曲を10-FEETがやったらどうなるのか」「10-FEETに見合ったときにすごい形になるんじゃないか」と思いながら作っていったんです。
キャリアと経験によってこういう曲を作れるようになったこともそうやし、この曲を「いいね」と思える今の状態って、ロックバンドとしてすごくいいことなんじゃないかと思うんです。それくらい「何かわからんけど突き抜けたものを持ってるな」と感じる曲やし、しかもそれが自己満足で終わるとも思ってなくて。僕らは自己満足に陥ることに対しては一番神経質になっていて、そのことを結成してから一度も忘れたことがないんです。だからこそ、こういう曲をシングルに選んだことは良かったんじゃないかと思います。
「自分たちがやってきたことによって、単なるロックにならない感覚がある」
ーーそれに伴って歌詞もより普遍的になっていて、シチュエーションを限定しない歌にも聴こえる一方で、〈どうやらここでお別れみたい/もう会えないみたいだね/僕にとって あなたにとって/僕らどうだったかな〉という冒頭の一節は、とてもパーソナルなお別れの歌にも聴こえますが、こういうことが歌われているのはどうしてなんでしょうか。
TAKUMA:それがよくわからないんですよねぇ、ほんまに(笑)。感じていることをこぼれるように書いただけなので。この歌詞って、「ここでこう書いたら、その前に書いた言葉の意味合いが変わってくるな」とか、そういうことを考えなくていいと思えた曲なんです。そうすることで景色がより前面に出たり、自分の過去の1シーンや、思い描いている「こうなったらいいな」というシーンにも結びつくんじゃないかなって。やっぱり音楽って、起承転結があるから伝わることもあれば、ない方が伝わることもきっとあると思うんですよ。ボヤっとするほどボヤっとしてないというか......これはもう音楽特有の力やと思うんですよね。そこにすごく愛着があります。
ーー先ほどから「自然に」「何も考えず」という言葉がよく出てきますが、そもそもそういう状態になれたきっかけとしては何が大きいんだと思いますか。
TAKUMA:やっぱり最近って、苦しかったり、寂しかったり、しんどかったり、日々が重かったりするやないですか。ひっくり返るような曲を書きたいけどなかなか書けないし、コロナで精神状態も衰弱していて......っていうなかで曲を書くときに、「今自分は衰弱してます」って書くんやったら、音楽辞めたほうがいいなと思って。それって自分が音楽でやることじゃない気がするんです。すごくネガティブで投げやりに見える歌詞を書くのであれば、「悲しいことが書いてあるけど、なんか聴いてて元気出るねんな」「聴いてたら、なんか投げやりじゃなくなるねん」っていう音楽になった方がいいと思うし、それこそがすごいことやなと思うんです。だから、〈輝いてるほど悲しくて〉っていう歌詞が「輝いてるのに悲しくなってしまう状況なんですか」とか、〈信じられないことは/信じることでしか生まれないなんて/今の僕には眩しすぎて〉が「それくらい心が汚れてしまった自分に諦めているんですね」とか、そういう風になってしまったら、僕的には失敗なんですよね。でも、「それが成功するか、失敗するか」って考えることもなく「これや!」と思ってやれているので。「僕が言いたいことをわかってもらえる」じゃなくて、「僕が作ってた時と同じ気持ちになってもらえるんじゃないかな」みたいな感覚があって、そういう風に曲ができていくのはとてもいいことやと思ってます。
何より、歌詞の内容が悲しかったり寂しかったりしても、決してマイナスな方向に向かっているわけじゃないんですね。特に今なんてみんな悲しいし、みんな寂しいと思うんですけど、「元気出していかなきゃ」とか「未来は明るいし、大丈夫だよ」とまでは言われたくもないし、言いたくもない......そんなこと、みんなわかってると思うんです。だからそれを説明するんじゃなくて、感じてもらえる力こそ、ロック特有なものなんじゃないかなって。やっぱりロックやってて思うのって、そういうことですよね。
ーーコロナ禍の状況に関わらず、ロックに対して抱いていた原風景がふわっと出たと言ってもいいんでしょうか。あえて言うならばよりピュアな自分が現れたというか。
TAKUMA:うん、そうですね。ピュアなところは出てるんですけど、やっぱり世の中ピュアなことばっかりじゃないし、ピュアじゃない人もいる。もっと言うと本当はピュアなのに、ピュアじゃないことを言ってしまう人はものすごくたくさんいます。そんななかで、「強く生きていくにはピュアなだけではダメや。ピュアなことだけ歌ってもみんなに届かないかもしれへん......」ってことを痛烈に噛みしめながらも、ピュアにやってるんやと思います。もはやそれはピュアじゃないかもしれないですけどね。でも、それが溢れてこぼれて止まらんようになったので、音楽にしたという感じです。そこにはあまりロジカルな構築がないので。
この曲では、「具体的に何をしたらいいか」「みんなでこうしようぜ」なんて示せてないんですよ。だけど毎日生きているなかで、「自分はこうしよう」と思ったときにバチンと背中を叩いてくれる感じというか、そういう気力やエネルギー、心の元気みたいなものになってほしいし、横にいるだけで「もっかい頑張ってみようかな」「大丈夫や」「俺は戦う」とか、そういう気持ちになるものになってほしいと思う。それは作りながらなんとなく感じてましたね。