加山雄三、日本のポップス史に与えた影響とは? 新たな試みを続けてきた音楽遍歴を辿る

 映画俳優、タレント、画家、船乗り……様々な顔を持つ加山雄三は、日本最初のギターヒーローであり、ロックスターであり、シンガーソングライターの草分けでもある。つまり、加山はJ-POPの偉大なるグランドファーザーなのだ。そして、驚かされるのは、82歳にして今も現役で、新しい世代に影響を与え続けているということだ。加山のミュージシャンとしてのキャリアは、日本のポップスの歴史といえるかもしれない。

ヴァリアス『加山雄三の新世界』

 1937年に映画スターの上原謙を父に持って生まれた加山は、音楽好きの両親が聴いていたジャズを子守唄替わりにして育った。加山の音楽の才能が芽吹いたのは8歳の時。叔母がオルガンで弾いていた「バイエルンの74番」を、指の動きだけを見て弾けるようになった加山は、音楽に興味を持つようになった。中学の頃、通学路にロシアの有名なピアニスト、レオニード・クロイツァーの家があり、そこから聞こえてくるピアノに惹かれて本格的にピアノを学び始めた加山は、後にピアノ協奏曲を作曲するほど上達する。子供の頃に学んだクラシックの教養が、作曲ができるミュージシャンとしての基礎を形成した。そして、戦後の混乱期にピアノを習える恵まれた環境があったことや、海外の文化に早くから触れていたことも、加山が音楽的才能を開花させるうえで大きな影響を与えた。

 加山にとって運命の楽器、ギターに出会ったのは17歳の時。友人たちとスキーに行った加山は、そこで友人のひとりが持って来たウクレレを気に入り、1時間ほどコーチを受けて弾けるようになった。また、その友人の影響でギターを弾くようになったという。その頃の加山が憧れていたのは、当時アメリカでセンセーショナルなデビューを飾ったエルヴィス・プレスリーだった。大学に入学した加山は、1957年に初めてのバンド、カントリー・クロップスを結成してボーカルとギターを担当、ちょうどその頃、海の向こうのリヴァプールでは、5歳下のポール・マッカートニーが、The Beatlesの前身になったジョン・レノンのバンド、The Quarry Menに加入している。1966年、The Beatlesが日本に来日した際には、加山はThe Beatlesが泊まっていたホテルを訪問。部屋でThe Beatlesの面々と一緒にすき焼きを食べて、互いのレコードを聴いたという伝説を残している。

 カントリー・クロップスが演奏していたのは、当時、日本で人気だったカントリーやロカビリーで、ロックンロールのルーツとなる音楽だった。また、彼らの練習をよく見ていたという加瀬邦彦は、加山からギターを学び、後にザ・スパイダース、寺内タケシとブルージーンズ、ザ・ワイルドワンズといった日本のGSバンドを渡り歩いて、日本のロック創成期に重要な役割を果たすことになる。大学卒業後、1960年に東宝と専属契約を結び映画俳優としてのキャリアをスタート。翌61年には、加山を大スターにした「若大将シリーズ」の第1作『大学の若大将』の主題歌で歌手デビューを飾った。映画の主人公が劇中で歌ってレコードを出すというのは、プレスリー映画と同じスタイル。60年代に入ってティーンエイジャーが独自のポップカルチャーを生み出していくなかで、加山がスクリーンで歌い、ギターを弾く姿に多くの若者が憧れた。そのなかのひとりが、加山と同じ茅ヶ崎に住んでいた桑田佳祐だ。ロックやR&Bといったアメリカ音楽と歌謡テイストを融合させる桑田の絶妙なさじ加減は、加山からの影響を感じさせる。

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