荏開津広『東京/ブロンクス/HIPHOP』第2回

荏開津広『東京/ブロンクス/HIPHOP』第2回:Bボーイとポスト・パンクの接点

 さて、チャーリー・エーハンが団地の敷地内で見た不思議なものーーそれは故・中西俊夫が新しいユニットMELONのレコーディングのために滞在していた1982年のニューヨークで、プロデューサーの桑原茂一たちと出かけたクラブで目撃した光景と重なっていた。

「・・・僕の友だちでブルーっていうイギリス人がいて“一番グレートなDJはアフリカ・バンバータだ”っていうんでペパーミント・ラウンジに見に行った。アフリカ・バンバータ(一行は)全員、黒いTシャツにプラネット・ロックなどとプリントしたシンプルなもの。機材はターンテーブルに、リズムボックス(808)、シンセ1台だったが、音楽はファンキーでした。一番僕がびっくりしたのは、なにかが客席というか足元でくるくる回ってるんですね。なんと人間でした。あの時にヒップホップはパンク以来の革命的なセンセーションになる可能性をみせてました・・・」(註6)

 サウス・ブロンクスのDJたちは、彼らにとってもうひとつの世界であるマンハッタンのクラブで数えられるほどの頻度でプレイを始めたばかりだった。そのオーガナイズをした数少ない1人は、Sex Pistolsのマネージャーだったマルコム・マクラーレンのブティック、ワールズ・エンドのニューヨーク店のスタッフのブルーだった。中西はそのブルーと友人だったので、ペパーミント・ラウンジに出かけた。サウス・ブロンクスとその外側の数少ない接点はファッションだった。コミュニケーション・メディアとしてのファッションをBボーイたちは重要に捉えていた。ファブ・ファイブ・フレディは、パンク/ポスト・パンクのファッションに自分たちと同じ美意識を感じたと言っている。

 Bボーイとポスト・パンクたちの両者とも(音楽と)ファッションの社会的な役割を敏感に感じとっていたのだ。1977年に遡れば、マクラーレンは、そのメディアをパリ五月革命のシチュアショニストの流儀通り、“商品と化した<人間のコミュニケーション>”(註7)という概念、すなわち“スペクタクル”に倣ってエリザベス二世までを巻き込み、最大限に文化産業に斬り込んだ人物である。

“女王陛下万歳ーー彼女は人間じゃない/女王陛下万歳ーそれはファシスト体制”
(「God Save the Queen」/Sex Pistols)

■荏開津広
執筆/DJ/京都精華大学、立教大学非常勤講師。ポンピドゥー・センター発の映像祭オールピスト京都プログラム・ディレクター。90年代初頭より東京の黎明期のクラブ、P.PICASSO、ZOO、MIX、YELLOW、INKSTICKなどでレジデントDJを、以後主にストリート・カルチャーの領域において国内外で活動。共訳書に『サウンド・アート』(フィルムアート社、2010年)。

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註1:『BRUTUS』、今野雄二によるインタビューより、マガジンハウス、1983年。
註2:少年ギャングたちが自分たちが住む地域の外側に出かけて帰ってくるという筋書きの映画が作られるほどだった。『ウォリアーズ』、ウォルター・ヒル監督、1979年。
註3:チャーリー・エーハン、『チャーリー・エーハンのワイルド・スタイル外伝』Presspop Gallery、2008年。
註4:アメリカのカルチャーには、クレメント・グリーンバーグの『近代芸術と文化』(紀伊國屋書店、1965年)から映画『ポイント・ブランク』の演技までがそれ以前にあった。Talking Headsのメンバーは全員名門美大RISD出身。
註5:コンセプチュアルにダンスを扱う「TanzMusik」を含む。
註6:『ADLIB』、スイングジャーナル社の記事より抜粋、大意、1983年12月号。
註7:『マルチチュードの文法--現代的な生活形式を分析するために』、パオロ・ヴィルノ著、廣瀬純訳、月曜社、2004年。

『東京/ブロンクス/HIPHOP』連載

第1回:ロックの終わりとラップの始まり
第2回:Bボーイとポスト・パンクの接点
第3回:YMOとアフリカ・バンバータの共振
第4回:NYと東京、ストリートカルチャーの共通点
第5回:“踊り場”がダンス・ミュージックに与えた影響
第6回:はっぴいえんど、闘争から辿るヒップホップ史

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