市川哲史の「すべての音楽はリスナーのもの」第4回

開館50周年を迎えたロックの殿堂 ライブハウス“武道館”の歴史を振り返る

 「日本一デカいライヴハウスにようこそ!」

 1986年7月、遂に初武道館公演を実現させたBOØWYの氷室京介のMCは26年後、ももいろクローバーZの百田夏菜子により無邪気にカヴァーされた。

 「ライヴハウス<武道館>によおこそー♡」

 誰だよ、己れの趣味を入れ知恵した野郎は。

 今年の10月3日で、日本武道館が開館50周年を迎えたらしい。そもそもが「日本伝統の武道を普及奨励する、心身練磨の大道場」だ。右翼襲撃に対する厳戒態勢が執られた1966年ビートルズ来日公演が嘘のように、我々昭和生まれの者は以来<ロックの殿堂>として、長くお世話になってきた。

 あとプロレスでもかなり。

 まずは洋楽。ディープ・パープル『ライヴ・イン・ジャパン』、サンタナ『ロータスの伝説』、チープ・トリック『at 武道館』、ボブ・ディラン『武道館』と同所でのライヴ・アルバムは名盤揃いで、<ブーダカン>が未だ全世界共通語なのは言うまでもない。違う場所の音源もちょっとだけ混ざってたりもするが(失笑)。

 1980年代後半になると、国産ロックバンドは皆、日本武道館ワンマン公演を目標に掲げる。洋楽ロックで育ったバンドたちにとっては、<あくまでも外タレさんのもの>的気後れに支配されつつも見果てぬ夢(←死語)だったわけだ。

 しかし1986年7月のBOØWYを皮切りに、同年11月バービーボーイズ、翌87年にはレベッカ。88年はレッド・ウォーリアーズにザ・ブルーハーツにUP-BEAT。89年になるとBUCK-TICK、プリプリ、ザ・ストリート・スライダーズ、ユニコーン、ジュンスカ、ZIGGY……。あっという間に武道館は、バンド少年少女の思春期の巣窟と化した。

 地下鉄の九段下駅から昇る坂道。石橋で渡る千鳥ヶ淵。大屋根で夕焼けに彩られる、大きな玉ねぎみたいな金色の擬宝珠。爆風スランプの“大きな玉ねぎの下で”で、イカくさい青春のシンボルに矮小化されても当然の、嘘のような開放ぶりだったのである。

 東京ドームがない時代、やはり武道館は名実ともに巨大なステイタスだった。アリーナ・1階2階3階席の全てに観客を収容すると、14471人。ステージや見切り席などカットしても最大10000人なのだから、動員力に自信がないと無謀だ。

 だからレッド・ウォーリアーズの初武道館は全席1000円のお試し価格だったし、ローグは公演半年前からレコード会社の地方営業所に1ヶ月ずつ泊りこみ、地味にプロモーション行脚を続けた。営業所で毎朝、社員と一緒にラジオ体操までしていた健気な姿は、いまでも私の網膜に焼きついている。

 そういえば、スタンド席を暗幕で覆ったりセットバックを緩く組むことで、最低5000~6000人動員できればなんとかカッコがつく、と当時イベンターから訊いた憶えがある。事実、館内人口密度が過疎地なみの武道館ライヴに何度も遭遇した。不毛な話だ。

 その一方で、演者が絶対厳守のルールが武道館には存在する。出禁を食らえば二度と武道館を貸してもらえぬから、そりゃ守る。たとえば、《ステージから客席に降りてはいけない》。それでも90年代、3名のあんぽんたんが果敢に飛び降りた。甲本ヒロト(THE BLUE HEARTS)→渡辺美里→キリト(PIERROT)。

 「ヒロトミサトキリト――全員名前の最後がトなんですよねぇ(キリト・談)」

 そんなオチはいらない。

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