実は任天堂、SIE、そしてインディーゲームの“三つ巴競争”が勃発していたーー『アストロボット』『ゼルダの伝説 知恵のかりもの』などが同時期に登場した意味

 気づいていただろうか。今年9月に任天堂、ソニー・インタラクティブエンターテインメント(SIE)、そしてインディーゲームが加わる三つ巴の競争が、ある意味で起きていたことに。

 9月6日にSIEの『アストロボット』が登場。9月18日にインディーからは、Devolver Digital販売・All Possible Futures開発の『The Plucky Squire ~ジョットと不思議なカラクリ絵本~』(以下、ジョットと不思議なカラクリ絵本)がリリース。そして9月26日に任天堂の『ゼルダの伝説 知恵のかりもの』(以下、知恵のかりもの)が発売となった。

 これらのタイトルはすべて、一見するとカートゥーン的なキャラで、伝統的なアクションや「ゼルダの伝説」シリーズ的な謎解きをするゲームデザインなどが共通している。方向が近いタイトルが揃って同じ時期にリリースされたことは、考えてみれば異様ではある。

 とはいえ、それぞれのタイトルにはオリジナルのクリエイティブがあり、根本にあるゲームプレイは別ではある。一方で実験性を組み込みながら、保守的なゲームデザインに回帰していることは見逃せない。

 それぞれの企業が一見、似た方向のゲームを同じ時期に出したのはどういう意味が見出せるだろうか? 3作を比較しながらゲームプレイして見えてきたのは、ジャンルの枠組みを超えて、いまのビデオゲーム全般に通ずる共通点だった。それは「いまのゲームは、80年代や90年代に夢見た“ほとんどの可能性”をやり尽くしてしまった後ではないか」ということだ。

ビデオゲームの可能性は巨大企業の競争によって切り開かれてきた

 すべてをやりつくした世界について語る前に、かつての巨大企業の競争を振り返ったほうがいいかもしれない。

 70年代からビデオゲームでは苛烈なハード競争が行われ、80年代以降は任天堂やセガ、そして(当時)ソニーコンピュータエンタテインメントらが鎬を削りあっていた。巨大企業の競争はどうあれビデオゲームの可能性を拡大させた。

 競争は単純にそれぞれの企業が市場のシェアを取り合うだけではなかった。各企業は技術競争や宣伝競争のなかで、シンプルな玩具に思われていたビデオゲームの可能性を追求し続けていた。もしかしたら映画のようになれるかもしれない。文学のような体験も作れるかもしれない。デジタルメディアでのアートにも近づけるかもしれない。結果、それらに比肩しうるジャンルへと進歩した。

90年代から2000年代に加熱した次世代ハード競争は、2024年のいま振り返っても鮮烈だった。

 企業同士の競争は、かつてビデオゲームが夢見たあらゆる可能性が切り拓かれていくのを追っていくものだった。一方でそれぞれのハードを推すゲーマーが、インターネット上で競合ハードへの敵意を向け、無益な諍いを起こした。そして諍いを利用したアフィリエイトサイトが勃興したり、ネットにおけるビデオゲームの言説が悪くなる副作用もあったのだが。

 やがて2000年代の半ばからは、巨大企業による開発や流通とは別の、個人クリエイターや小さなチームによるインディーゲームが台頭する。

 インディーゲームは巨大企業のようなパッケージソフトの生産や流通、膨大な開発者による人件費などのコストを抑えることで、普通の市場には登場しない実験的なゲームの可能性を追求できたのである。Steamなどオンラインのダウンロード販売サイトが整備されていくことで、2010年代以降は急速に広がっていく。

『アストロボット』はまるでプレステが切り開いた“可能性”の轍をたどるかのよう

 いまでは巨大企業の競争による可能性の追求、巨大企業に対するオルタナティブとして台頭したインディーのクリエイティブも、いったんは落ち着いてしまったように思える。

 表向きにわかりやすく“ゲームの可能性”をやり尽くしたと感じさせるのは、SIEの『アストロボット』かもしれない。シンプルなアクションゲームに、過去30年のあいだ、PlayStationに登場してきたゲームキャラクターが結集するお祭りみたいなタイトルである。ただ見方を変えれば、PlayStationがあらゆる可能性をやり尽くしてきた道を、走馬灯のように振り返るようなゲームとも感じた。

 PlayStationは登場したときから、(平たく言えば)これまでのおもちゃ的で低年齢層向けだったり、もしくはアーケードゲームのようにはっきりとジャンルを決めたりするようなゲームや、ゲームの流通に至るまで徹底的に反抗したスタンスを取ったハードでもあった。その差別化によって、単なる企業間競争を超え、ゲームの可能性を拡張していったはずだ。

 高画質な動画再生機能を実装することでゲームを映画のように見せたり、時にはゲームのルールさえも取り払ったアーティスティックなゲームをリリースしたりしてみせた。PlayStationがビデオゲームの可能性を広げたことは疑いようがない。

 メディアとしてビデオゲームの可能性を発展させた一方、自社で作り上げたシリーズやキャラクターに関しては、任天堂やセガと比べて冷たい扱いだったように思う。

 『どこでもいっしょ』や『サルゲッチュ』といったポップなキャラクターのタイトルや、『アークザラッド』や『ワイルドアームズ』といったRPGなどなど、いくつかのキャラやシリーズはもはやあまり見なくなってしまった。

 これはPlayStationが自社キャラクターコンテンツを育てることよりも、PlayStationがビデオゲームをハブとして新しいメディアになろうとする意思を優先させた結果だろう。そのスタンスから、映画的なゲームからアートハウス的なゲームといった数多くの可能性を追求してきた。

 そうして今年30周年を迎えたPlayStationは、どんな可能性を追っているのか? 『アストロボット』はそんな記念の年に登場したアクションゲームで、プレイヤーは宇宙に散らばった「ボット」と呼ばれるキャラクターたちを探すことが目的だ。

 ボットたちはさまざまなゲームキャラのコスチュームを着用している。『どこでもいっしょ』や『サルゲッチュ』といった過去のSIEタイトルのキャラをはじめ、「アンチャーテッド」シリーズや「The Last of Us」シリーズといった現在のSIEを代表するキャラの見た目をしている。また、他社タイトルでも「メタルギアソリッド」シリーズや「バイオハザード」シリーズのコスチュームを見せもする。

 それらのボットたちは、この30年の間にプレイステーションが切り拓いたさまざまな可能性の痕跡でもある。映画のようなゲームを目指した「アンチャーテッド」シリーズや「メタルギアソリッド」シリーズ、そして既存のゲームデザインから離れ、別の体験を模索したアーティスティックな『ICO』や『風ノ旅ビト』といったタイトルのコスチュームを着たボットがそうだ。

 これらは「PlayStationがゲームファンに向けて、なかなか見せることのなかったゲームへの愛を表明しているんだ」と捉えてもいいだろう。しかしPlayStationが任天堂やセガ的なるゲームを否定してきた歴史を経て、『アストロボット』で到達したのがオーソドックスな、まるで任天堂のような3Dアクションなのは、ある種の可能性をやり尽くした果てのように思えるのである。

 もちろん、本作は過去を振り返った末にコンサバティブなアクションに戻ったゲームではない。PlayStationならではのあらたな可能性を追求している面もある。それは触覚の体験である。

 そもそも『アストロボット』はPS5に最初から内蔵されているソフト、『ASTRO's PLAYROOM』の続編でもある。『ASTRO's PLAYROOM』はPlayStation 5の技術デモとなるアクションゲームだ。特にDualSenseコントローラーがもたらす触覚表現を体験させることを目的としている。DualSenseは繊細な振動表現を可能にしており、ゲーム中で草に触れたり、氷の上を滑ったりする感覚をプレイヤーに伝えるのだ。

 こうした触覚表現は、これまで視覚と聴覚の進化に特化してきたビデオゲームにとって新たな可能性があると思う。とはいえ、この表現に着手するのはPlayStationがやれることをひと通りやり尽くした後だから、とも感じる。

インディーが追求した可能性もやり尽くされた『ジョットと不思議なカラクリ絵本』

 巨大企業であるSIEのPlayStationがひと通り可能性をやりつくしたならば、在野のインディーではどうなのだろうか? ところがこちらも「ジョットと不思議なカラクリ絵本」を見る限り、多くの可能性がやり尽くされた後のように思える。

 インディーゲームは企業ではなく、個人や小さなチームが開発するゲームのカテゴリである。既存の巨大企業ではプロジェクトとして成立しないようなゲーム開発を特徴としている。だからこそ、実験的な表現を追求することを可能としていた。

 たとえば台湾の『還願 - Devotion』のように現実社会を扱うセンシティブなテーマのゲームや、『Inscryption』のようにゲームデザインの構造を逆転させるようなメタフィクションとしてのゲーム開発など、この分野が成し遂げた革新的なタイトルは数多い。とりわけ、インディーゲームが注目され始めた2000年代後半から2010年代初頭は、そんな革新を見せたクラシックとも言えるタイトルが揃っている。

 しかし、そこからさらに長い年月が経った現在、インディーゲームは新たな可能性を追求し続けているのだろうか? この数年でインディーゲームはその市場が急激に拡大し、すでに企業がインディーゲームを作るという倒錯した事態も当たり前になってしまった。インディーゲームはゲームの可能性を追求するというより、ビジネスとしていかに成功するかという話題も少なくなくなったように感じる。

 『ジョットと不思議なカラクリ絵本』は、そんなインディーゲームのやりつくされた先を示すかのような一作に思える。本作は「ゼルダの伝説」的なアクションと謎解きをメインにしたゲームデザインの上に、メタフィクションとしてのアプローチや、さまざまなゲームの文脈を組み合わせるアプローチを特徴としている。

 それはストーリーからもうかがい知れるだろう。主人公ジョットは2Dの絵本の登場人物として、自分の冒険を続けていた。ところがある日、この世界が絵本であると知る。そして悪のボスに絵本の世界から放逐され、絵本の主人公である権利を奪われてしまう。ジョットが絵本の世界から放り出された先は、三次元の現実世界だった。

 本作は主に3Dの現実世界と2Dの絵本世界を行き来しながら、謎を解くゲームプレイが特徴である。先へ進むごとに絵本の持ち主である少年の環境を知っていったり、絵本の物語を、言葉を入れ替え、内容を書き変えるパズルが出てきたりする。

 またゲームの展開によっては、突如ボクシングゲームの『パンチアウト!!』風のボス戦になったり、『パズルボブル』風のパズルが行われるなど、過去のゲームの記憶を引用してみせるバラエティの豊かさも魅力には違いない。

 だが、こうしたメタフィクションとしての仕掛けも、2Dと3Dを行き来するゲームデザインも、過去のビデオゲームを引用することも、文字を入れ替えて世界を書き換える方法も、実はすべてやり尽くされたものだ。

 『The Stanley Parable』や『Pony Island』といったメタフィクションの傑作や、文字を入れ替えて世界を変えるパズル『Baba Is You』も、すでに2010年代のうちにリリースされている。過去のビデオゲームの文脈を持ってくる方法も、『Evoland』などがやっていた。なにより、2Dと3Dの世界を行き来するアイディア自体、すでに任天堂が『ゼルダの伝説 神々のトライフォース2』や『スーパーマリオ オデッセイ』でやり尽くしている。

 「ジョットと不思議なカラクリ絵本」は決して新しい要素があるわけではない。むしろ、インディーゲームがやってきた前衛的な試みの多くをなぞりながら、伝統的な「ゼルダの伝説」スタイルのゲームデザインに回帰した点こそ興味深いのだ。

まるで開発者視点でテストプレイをするかのような、“メタな自由”の『知恵のかりもの』

 『アストロボット』が任天堂的なアクション、『ジョットと不思議なカラクリ絵本』が「ゼルダの伝説」的なゲームデザインを基本とするなか、当の任天堂はというと『知恵のかりもの』にて2Dの「ゼルダの伝説」に回帰する方法を取っている。ただし、こちらは完成しきったゲームデザインを自ら破壊に向かうかのようなクリエイティブでもある。

 任天堂は『ゼルダの伝説 ブレス オブ ザ ワイルド』(以下、ブレス オブ ザ ワイルド)そして『ゼルダの伝説 ティアーズ オブ ザ キングダム』(以下、ティアーズ オブ ザ キングダム)によって、過去のシリーズと一線を画す、圧倒的な攻略の自由や遊びの自由を実現した。

 この2作以前の「ゼルダの伝説」シリーズではダンジョンの謎解きの答えや、ゲームを進める順番はほぼひとつに決まっていた。それは悪い意味じゃなく、シリーズの完成度を高める基本的なスタンスには違いない。しかし『ブレス オブ ザ ワイルド』『ティアーズ オブ ザ キングダム』に代表されるようなオープンワールド化をはじめ、世界的に攻略やゲーム進行の自由度が生かされるタイトルが中心となる時代となってきた。

 『知恵のかりもの』はそんな2作を経てからの2Dゼルダに戻った一作なこともあり、自由な攻略を可能としたゲームデザインは2作の延長と感じられる。だが、その自由の背景にあるものはハイコンテクストだと思う。

 『知恵のかりもの』の“自由”は奇妙である。決してプレイヤーがゲームの舞台となるハイラルの世界に入り込み、なんでもやれるということではない。

 むしろ「生きた世界で自由にプレイ」とは逆なのだ。表向きは口には出していないだけで、相当にメタフィクションのようなゲームデザインを持っている。そのアプローチは先の『ジョットと不思議なカラクリ絵本』よりもラディカルだ。

 まるでプレイヤーは、『知恵のかりもの』というゲーム開発チームのひとりとして、ある意味でゲームのテストプレイをしているかのような、“自由”なゲームプレイなのである。

 あらためて『知恵のかりもの』の簡単な内容をまとめておいたほうがいいだろう。ある日、ハイラルの世界各地は謎の裂け目によって別の次元に消えていく災害が起きる。シリーズの主人公リンクも、その現象によって姿を消した。世界を救える勇者が消えたいま、ゼルダ姫は仲間のトリィと一緒に、ベッドから敵までコピーして呼び出すことのできる「カリモノ」の力で、ハイラルに起きた災害の謎を解く旅に出る。

 この「カリモノ」のゲームシステムは、まさしく開発中のゲームのデバッグやテストプレイに近い。

 大抵のビデオゲーム開発におけるデバッグやテストでは、プレイヤーは“自由”にテスト用ツールを使ってマップの好きな場所に移動したり、“自由”にマップ上に敵やオブジェクトを呼び出して、挙動が上手くいっているか試したりする。「カリモノ」でテーブルや敵を呼び出したりするのは、どこか開発ツールを使ってオブジェクトを出すような感覚がある。

 そして『知恵のかりもの』の異質さとは、完成された「ゼルダの伝説」のフォーマットを利用し、デバッグやテストプレイをするかのように“自由”にプレイできることにある。

 なにせ『知恵のかりもの』では、過去の「ゼルダの伝説」だったら進行上は通れないようにしてある高い壁や森をプレイ次第でいくらでもスルーできてしまう。それどころかダンジョンによっては謎解きすら無視することさえできる。

 実際、『知恵のかりもの』のスタッフインタビューを読むと、開発の初期に「扉や燭台などいろんなものをコピー&ペーストしてオリジナルのダンジョンをつくる、という遊び」「ゼルダの遊びをプレイヤーが自分でつくるということで『エディットダンジョン』」が構想されていたという。

 この話を聞く限り『スーパーマリオメーカー』のゼルダ版ともいえるアイディアで、いわばユーザーが何らかのステージを開発するツールとしての“自由”が初期から考えられていたと見ていいだろう。

 こうした実質的に開発者がツールを使ってクリエイティブするような自由は『ティアーズ オブ ザ キングダム』でも見られた。開発者向けカンファレンスCEDEC 2024にて本作の開発について語ったセッションでは、より顕著にそれがわかる。

 たとえば「トーレルーフ」というアクションの誕生には、そもそもデバッグツールでマップを自由移動できる機能をゲーム本編にも転用してみようという背景があった。その他にも「ウルトラハンド」のアクションで乗り物や武器を作ってしまうのも、考えてみればクリエイティブ的な自由をゲーム本編に組み込んだ例だろう。それが前作「ブレス オブ ザ ワイルド」の自由度との差になっている。

 『知恵のかりもの』の“自由”は、そうした『ティアーズ オブ ザ キングダム』的な開発者側のクリエイティブ視点をさらに進行させたように思える。『知恵のかりもの』に出てくる謎の裂け目の内部に展開されるマップは、見方を変えれば開発ツールで適当にアセットを組み合わせたマップみたいな雰囲気すらある。

 ここからわかることはこうだ。すでに「ゼルダの伝説」全体の基本的なアクションや謎解きの面白さはやり尽くされ、そして「ブレス オブ ザ ワイルド」で自由度もやり尽くした果てに、ついに開発ツールを使って出来上がったゲームを飛び越えてしまうような遊びに行ってしまった。

 『知恵のかりもの』が持つメタフィクション性とは、プレイヤーが開発側のような視点で、自由に状況をクリエイトしていくゲームプレイそのものにある。しかし、それは「ゼルダの伝説」というシリーズでやれる可能性が行きつくところまで行ってしまい、あとは自己破壊ぎりぎりのところで新味を作るしかないということではないか。

ほとんどの可能性をやりつくした先の未来

 こうして『アストロボット』、『ジョットと不思議なカラクリ絵本』、そして『知恵のかりもの』の3作が同時にリリースされるシンクロニシティには、こんなことを思う。

ビデオゲームは数多くの可能性をやり尽くした。
映画的なゲームという可能性をやり尽くした。
既存ゲームを否定するアーティスティックなゲームという可能性をやり尽くした。
メタフィクションとしてのゲームという可能性をやり尽くした。
過去の文脈を組み合わせるゲームという可能性をやり尽くした。
過去を再解釈するゲームという可能性をやり尽くした。
自由度のあるゲームという可能性さえもやり尽くした。

あらゆる可能性をやり尽くし、完成された保守的なゲームデザインへ回帰した。
保守的なゲームデザインの中にアヴァンギャルドを組み込んだ。

 それは他の表現ジャンルでも起きた、さまざまな可能性の追求の果てにコンサバティブなデザインに回帰することに近いかもしれない(たとえばファッションにおいて、ほとんどの可能性がやりつくされた後に、“究極の普通”をコンセプトとしたノームコアが台頭したような)。

 9月に起きた、任天堂とSIEとインディーが絡んだある意味での競争は、数十年のあいだにでひとつの表現が行きつく先を端的に示した歴史的なものでもあった。

 これから先もビデオゲームは作られ続けるだろう。荒野のなかでどの可能性を追いかけられ、そしてどこに新たな鉱脈があるかは定かではない。

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