映画『FNaF』公開を機に振り返る、原作の“リアルさ” ジャンプスケア表現の恐怖と中毒性の正体とは
なぜ人形たちが「近く」に感じられるのか
『パラノーマル・アクティビティ』のラストシーンと、『FNaF』における「ミスシーン(人形が襲いかかるシーン)」を比べてみよう。
『パラノーマル・アクティビティ』のラストシーンでは、ケイティの恋人・ミカが階下から寝室にある定点カメラに向かって投げ飛ばされてレンズに激突する。一見、『FNaF』のミスシーンと似たようなことが起きていると思われる。しかし両者には決定的な、かつ単純な違いがある。それは演出上の違いというより、実写映画とゲームのアニメーションとの間にみられる物理的な違いだ。
つまり、ミカが投げ飛ばされるシーンでは、暗闇の階段からふいにミカの背中が現れ、高速でカメラレンズに向かって叩きつけられる過程が連続した映像として描写される。一方で『FNaF』の人形たちが主人公に襲いかかる様子がどのように描写されるかといえば、人形の「襲撃」を描いたアニメーションがデジタルレイヤーとして挿し込まれる。すなわち実写映画とは異なり、眼前に向かってくる物体(のアニメーションレイヤー)と後景(を描写したデジタルレイヤー)との間には、ある種の物理的な断絶を感じられるのだ。文字通り「唐突」に現れるジャンプスケアである。
さらにこのことは、『パラノーマル・アクティビティ』にみられる「異常さ」の「落差」の演出とは別の差異を生み出してもいるように思われる。というのは、『FNaF』のプレイヤーの視界に入るのは基本的には警備室の風景と監視カメラの映像で、これらは前述した通り時間的に連続している。そこにある瞬間、「襲撃」のアニメーションレイヤーが前触れなく挿入される。ここで、等速で時間が進行していた後景のレイヤー群と、突然最前に現れた(時間的過程を持たない)人形のアニメーションレイヤーとの間に、時間的な「落差」が生じる。人形たちは等速に進んでいる後景レイヤーの時間軸を寸断するかたちで現れるために、最上位レイヤーと後景レイヤー郡との時間的な反作用を生み出し、そのことがジャンプスケアの唐突さを増幅させてもいるだろう。
つまり『FNaF』におけるジャンプスケアの恐怖は、二つの意味で強調されている。一つは前述した同期演出による没入感の向上によって。もう一つは物理的な要因によって。つまり実写映像のように連続した過程が描写されることなく、アニメーションのデジタルレイヤーが前触れなく挿入されることによってである。
『パラノーマル・アクティビティ』においてはホラーシーンの「異常さ」の内容的な落差によって恐怖を感じられる。それに対して『FNaF』のプレイヤーが強く感じる恐怖は、人形たちのアニメーションレイヤーと後景レイヤーとの時間的な落差によって極端に強化されたジャンプスケアの唐突さを体験することで生じているように思われる。
そしてもし、各デジタルレイヤーの間に「距離」があるのだとすれば(プレイヤーはそう錯覚するのだが)、実際にあの人形たちは我々の「近く」に来ているのである。
なぜ人形たちが「リアル」に感じられるのか
こうした演出上の「近さ」に加えて、人形たち、すなわちアニマトロニクスのビジュアル面のリアリティについても検討したい。最後にあらためて原作と映画版を比較してみよう。
原作において人形たちが襲いかかってくるシーンは、上述した演出を抜きにしても非常に臨場感を持って体験できる。
それはCGアニメーションのクオリティが高いからだというのは言うまでもないが、それ以前にアニマトロニクスは「現実でもアニメっぽい」。「不気味の谷現象」という言葉があるように、人間や動物を模したAIやアニマトロニクスに奇妙な違和感を抱くことは珍しくない。それはどこか現実そのものではない、わずかなフィクションらしさを感じてしまうからである(たとえばディズニーアトラクションの「カリブの海賊」に現れるアニマトロニクスなどがそうだ)。そもそもこの言葉の語源が「アニメーション(動作)」と「エレクトロニクス(電子工学)」を組み合わせだとされているように、「リアルなアニマトロニクス」はそもそもアニメに近いのだ。
とすれば原作に登場する「アニメーションのアニマトロニクス」は、逆説的に現実のものに近い。むしろ、「アニメっぽい」ものがアニメになっているわけだから「現実のものよりも現実らしい」という奇妙な言い方ができるかもしれない。
映画版の撮影にあたりこのアニマトロニクスはじっさいに製作されたようで、それも「セサミストリート」で知られる「ジム・ヘンソン・クリーチャー・ショップ」が担当したという(※)。「(原作の)キャラクターに忠実」であることにこだわったというだけあって、そのクオリティは映画本編を観れば一目瞭然である。
しかし「原作に忠実」であるとはどういうことか。それは「アニメっぽいアニマトロニクスのアニメーション」に忠実ということである。つまり製作陣は「アニメっぽいアニマトロニクスのアニメーションっぽいアニマトロニクス」を「現実」で作ったことになる。そして我々はそれを映像という「フィクション」の中で目撃するのである。いったいなにが起きているのだろうか。
要するにフレディたちアニマトロニクスのリアリティラインは、根本的に揺らいでいると言える。現実とフィクションの狭間にあるようなリアリティで存在するアニマトロニクスだからこそ、アニメーションで描かれていてもプレイヤーはそれを「リアル」に感じてしまうだろう。
そう考えると映画版において、マイクと妹のアビーがフレディたちと邂逅する場面は注目に値する。映画中盤において、主人公兄妹とフレディたちが友好的に接する場面がある。これは原作の(カジュアル)プレイヤーからすれば違和感が生じるシーンだろう。原作において人形たちと「出会う」瞬間にはすでに「ゲームオーバー」だからだ。しかしそのゲームオーバーのわずかな瞬間にだけ、プレイヤーは「近く」に現れた「リアル」な「アニマトロニクス」と触れ合えるのだ。
そして映画版において、ついにフレディと触れ合える「現実」の人間が実現した。それはゲームオーバーの瞬間のあの臨場感が、たしかにリアルなものであったと原作者自ら証言しているかのようだ。
にもかかわらず、映画もまた「フィクション」である。あくまでもそれは映像の中の出来事だ。どれだけ現実に近い存在に感じられても、あくまでもフレディはフィクションの住人である。しかし、フィクションではあっても現実に「近い」ことは間違いない。
こうしたリアリティラインの攪拌は映画化をきっかけにしてむしろより進行し、我々のフレディへの捉えどころのなさはますます強化されたようにも思える。存在しているのか存在していないのか不明確な、現実とフィクションの狭間の絶妙な水準においてのみ出会えるアニマトロニクスの奇妙な恐怖は、依然として続く。
こうした「存在の不明瞭さ」と「臨場感」の往復こそ、『Five Nights at Freddy's』の世界観そのものである。
フレディはどこにいるのか。我々は探索と監視を続けなければならない。
※「映画『FNAF』原作に忠実なアニマトロニクスが誕生するまで 製作陣が目指したファンに愛されるゲーム実写化」
https://www.cinematoday.jp/news/N0141384
【参考書籍】
トーマス・ラマール著、藤木秀明監訳、大崎晴美訳『アニメ・マシーン』(名古屋大学出版会、2013)
©2014 Scott Cawthon
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