「人」と「AI」の区別が曖昧になりつつある時代に“私たちはどう生きるべきか” 古代の叡智を現代に活かすAI『ブッダボットプラス』開発者と考える

「人々が働きやすい環境を作る手助けができたら面白い」(古屋)

 こうして生まれた『ブッダボットプラス』だが、一般公開は行っていない。今後はどのような領域での活用が考えられるのだろうか。

「将来、国内での限定的な公開については検討していますが、一般に公開する予定はありません。ただ、企業からの問い合わせがちらほらあり、その多くはHRテックにおける活用、つまり会社で働く人たちの心のケアに活用できないかというものです。信仰の自由に抵触しない形で、仏教の中でも『伝統知』と呼ばれるような、昔から言い伝えられている教えを活用して、人々が働きやすい環境を作る手助けができたら面白いと思います。また、『ブッダボットプラス』が取ったアプローチ自体はさまざまな形に応用できると考えています」(古屋)

「『ブッダボットプラス』は仏教の経典を学習していますが、同様の方法でたとえば有名な経営者の経営理論を学習した『経営者ボット』ですとか、『経済学者ボット』みたいなものを作ることもできます。企業には企業風土やカラー、哲学がありますから、こうした経営哲学を学んだAIを会社に導入して、『仕事で困ったら誰でもAIに相談できる』というような仕組みを作ることもできると思います」(熊谷)

 インタビュー後、両名は京都大学から「親鸞ボット」と「菩薩ボット」の開発に成功したというリリースを発表した。いずれも宗教家との対話ボットであり、「ブッダボットプラス」の技術を応用したものだ。リリースは「今後さらに、人類史を代表する哲人や聖者たちの対話AIを順次開発し、デジタル空間上に豊かな伝統知を再現していく予定です」と結ばれている。

「人」と「AI」の境界が曖昧になったとき、我々はどう生きるべきか?

 取材をとおして感じたのは、近い未来ますます「人とテクノロジーの区別はつきにくくなる」ということだ。すでに現代、デジタル空間ではボットと生きている人間の区別がつきにくい。テキストをAIに読ませてアバターを与えれば、誰でも自分を模したAIボットを作れる時代がすでに来ており、技術的ハードルも下がり続けている。

 こうした状況はこれから人間をどのように変質させていくのか、あるいは人々はこの状況をどう受容するのだろうか? 最後に熊谷氏に伺った回答を、この記事の結びとしたい。

「技術はニュートラルなものですので、技術そのものが絶対的に『良い』とか『悪い』っていうこともありません。技術には良い面・悪い面が両方あるものです。ただ技術が生まれることで、これまでできなかったことができるようになる、0が1になる可能性が大きい点で、私は技術の発展をポジティブにとらえます。

 テクノロジーの急速な発展に恐怖や嫌悪感をうたう人も一定数いるかと思いますが、こうした感情が生まれる源泉には『自分のアイデンティティをテクノロジーが侵犯してくる』とか『AIに人間のアイデンティティが脅かされる』という考え方があるのではないでしょうか。

 対して仏教には『無我』という考え方があります。仏教は恒常的・絶対的な『我=アイデンティティ』というものを否定していますので、私自身、アイデンティティの喪失に対してあまり危機感を持っていません。

 日本やチベット、ブータンなどの仏教国において仏教というのは、その国に元々あった宗教とともに浸透していきました。唯一の神・唯一の宗教を信奉するという排他的な考え方ではなく、『こういうコンテクストにおいては地元の神を信奉しましょう』というような形で土着の宗教と共存してきた歴史があります。

 なので人々の受容も排他的な形ではなく、『状況に応じて最適なテクノロジーを選び取る』というのが理想の姿なのではないでしょうか。これはAIに限らず、『デジタルツイン』や『アバター』の発展についても同様に考えています。

 宗教の世界でも、AIによって今までよりも良い宗教家を生み出せるかもしれません。AIがこれまでにない哲学や教義、新しい定義を生み出してくるなら、既存の教義の解釈も変わるかもしれないし、ともすると、新しい教義が創出される可能性すらあるわけですが、その教義を選び取るのは結局人間ですし、その選択に人間の“価値”があるのだと思います」(熊谷)

 

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