2006年、ぼくらはポケモンをめちゃくちゃに壊してしまったーー『ダイパ』とDSに刻まれた“あの日の熱狂”

「まぁ見とけや」

 薄暗い団地群のある一室で、少しほつれの目立つシャツを着た少年は、自慢げにニンテンドーDSを掲げてそういった。

 そうして、彼は神聖なポケモンリーグの一室で、入ってきたゲートに向かって自分のフローゼルに「なみのり」を命令した。

 驚くべきことに、水どころか空間すらないはずの暗闇で、彼は確かに「なみのり」をしていた。この様子には、団地に集まった同じクラスのガキンチョも、目の前でドクケイルを繰り出そうとしていた四天王のリョウも、すっかり呆気に取られてしまったようだった。

 その少年は、さも当然のように続ける。「なみのりをしたら、右に200歩いって、そんで下に256歩、左に63歩いくねん」下の画面に表示した歩数計歩数計を頼りに、彼は恐れることなく闇を往った。その間、「なぞのばしょ」と表示されたり、BGMが変わったりした。それを見ている僕らは、デジタルの森林で遭難しているような、それでいてこの普段あまり目立たない少年が、唯一の道案内人な気がして、ずっとドキドキした。

「ここや」

 ひとしきり歩いた後、彼はStartボタンを押しておもむろに「たんけんセット」を使った。すると一瞬、自分たちも知る地下世界へ戻ったので安心したが、たちまち彼は「地上へ」を選んでしまう。またあの闇へ戻るのか? 彼が浮上したのは、闇でこそないが、しかし得体のしれない小島だった。「しんげつじま」とある。一見正常だが、よく見ると地面のテクスチャが一部めりこんでいて、取返しのつかないことになった、ひょっとすると少年のDSに刺さったSDカードさえ、もうダメになったのではないかと恐怖するほどだった。

 けれども、島の奥に進んだとき、そういう一切の不安や恐怖は吹き飛んだ。なぜなら、ポケモンがいたのだ。見たことのない、真っ黒な布のようなもので覆われ、いかにも強敵だとわかる、そんなポケモンがいたのだ。ダークライを名乗るそのポケモンはそれまで、まだ『コロコロコミック』にすら載っていない、ただクラスの中で些細な噂でのみ聞いた、文字通りの「伝説の」ポケモンだった。それを実際に探り、自分たちが先に見つけたという錯覚(※)は、あれから15年経ったいまでも鮮明に思いだせる。

(※)もちろん、少年が自力で見つけたわけでなく、本当はインターネットに捕まえ方が流布していたのだ。

 本来であれば、夏休みが明けてしまった憂鬱が抜けていない頃、露ほどにも必要性を感じない授業に動員されていたわれわれは、たった一つの希望を胸にその絶望に抗っていた。その希望というのが、9月末に発売を予定されていた、『ポケットモンスター ダイヤモンド・パール』だった。

 もちろん、ほとんどの男の子はポケモンにまだ夢中だったし、何よりパッケージに描かれたディアルガが「かっこいいもの」へのあこがれに火をつけた(人によってはパルキアかもしれない)。まだDSは入手が難しく、うまくおもちゃ屋に並んで、しかもソフトの予約もしなきゃいけないというハードルの高さはあったが、逆にこの高いハードルが妙な愉悦感ともども、まだ見ぬシンオウ地方への冒険に対する期待を膨らませていたのだろう。

 そうこうして手に入れた『ポケットモンスター ダイヤモンド・パール』の旅はまったく充実したものだった。

 疑似的な3Dで構築された美しいシンオウ地方において、コトブキシティやトバリシティのビルの表現はとても携帯機とは思えない迫力があったし、それでいてテンガンざんの身も凍えるような山道や、ハクタイの森にあるぞくっとする洋館など、北国を舞台にした少しダークな雰囲気もよかった。

 毎日のように、われわれは放課後、夕陽がかった教室で、いまはシンオウのどの辺りで、どんなジムリーダーとぶつかり、彼らを乗り越えるために何が必要か、何十分も議論しあった。あるいは、最初にほのおタイプのヒコザルを選んでしまったがために、最初に立ちはだかるヒョウタのイワーク一体すら突破できないことを慰めあう会なども作られた。あのとき、普通なら見逃してしまう些細なNPCの台詞さえも愉快に思えたし、その時の感情を友と共有するだけで時間が過ぎていった。

 1か月ほど経って、いままで自分の旅を助けてくれたシロナ先生のガブリアスを打ち倒したとき、わたしは少したじろいだ。ああ、終わってしまったのだと。これまで一緒に戦ってくれたエンペルト、ルカリオ、ムクホーク、クロバット、レントラー、そしてディアルガが一匹、一匹と殿堂の間で登録されていく間、わたしはどんな気持ちでいればいいのかわからず、ただ自分が彼らと共にチャンピオンとして表彰される姿を、ぼんやりと見ているだけだった。

 その時の感情は、いわば大切にしていたチョコレートの箱の中身をすべて食べつくしてしまったような、単純なセンチメンタルではない。その虚しさに加え、幼いながらすでに芽生え始めていた思春期の精神からくる、怒気を含むものだった。つまり、われわれの心を見透かしたように、始まるべき物語が終わるべき結末を迎えた起承転結に対して、少し子ども扱いされたような屈辱を覚えたような気がしたのだ(この感情は思春期のそれであることを、改めて了承いただきたい)。

 このような邪な心を抱いたのは、きっとわたしだけではなかった。いまだ残暑が関西一帯を苦しめる中、エアコンすらついていないボロ教室に集まった同志たちもまた密かに反逆心を育てていたのだろうし、世界で初めて四天王の部屋で「なみのり」をするなんて奇想天外な実験を試みたハッカーも、そういう気持ちがあったのだろう。

「どれだけハッキリいってやってもやめようとしない いいかわるいかなんてかんけいないんだよな? 「できる」ってだけでやろうとするんだ そう… 「できる」って だけで… やらずには いられないんだ」(『Undertale』)

 話は冒頭に戻る。あの暑苦しい団地の一室で披露されたマジックは、正直に言えば痛快だった。あんなに美しく、完璧なシンオウ地方が、「右200、下256、左63」という情報だけで、見るも無残な形に壊されていく。そして一度穴が開いたシンオウ地方から、まだ胎児も同然だったダークライが解き放たれ、対戦や交換を通じて「何なんだ、このポケモンは」という疑念と共に、他のプレイヤーにも侵食していった。完全にコントロールされていたはずのポケモンという神話が、いま、目の前で改変されていく眼前のディスプレイに、不謹慎ながら異様な興奮を覚えた。

 まだ、いるはずだ。

 誰がそう言ったのか、あるいは、考えたのかはわからない。けれど「なぞのばしょ」を知ったわれわれは、ここが「しんげつじま」以外の、未だ隠された世界に繋がっていると信じていた。すぐに団地の少年が不確かな情報をもってきた。彼曰く、次の獲物はシェイミというらしい。シェイミ? シェイミとは何だ。名前から察するに温和なポケモンに聞こえるのだが、実はダークライのように凶暴そうなポケモンかもしれない。タイプはなんだろう、エスパーか、みずか。そうして誰もがまた一度終えた物語を自分たちの手で復活させるべく、またあの闇しかない野生へと戻っていった。

 念のため断っておくが、この文章は作品のハックを無邪気に肯定するものではない。実際、シェイミを巡る聖杯探索はダークライのようにうまくいかなかった。ダークライにより巻き起こされたゴールドラッシュのごときトレーナーたちの熱狂によって情報が錯綜していたし、そのうえ、自分たちよりはるかに年上のトレーナーたちが、面白半分で嘘八百の情報を流していた。これにより、この探索でわれわれの同志を含む、多くの子供たちの心とメモリが負傷した。実は「なぞのばしょ」バグは重大なリスクが伴う探索で、間違った場所で「たんけんセット」を使うと主人公はオブジェクトの陥穽にはまってしまい、そのうえ「たんけんセット」の使用はレポートの記入が必須なので、二度とそのデータでポケモンと冒険できなくなる危険があった。そして実際、シェイミを求めた多くの仲間が次々に脱落していった。

 やっと「はなのらくえん」にうずくまるシェイミを発見したとき、すでにまともにプレイできるROMを持っていた者は半分になっていた。これだけの苦労と犠牲に見合うだけの価値がシェイミにあったのかどうかすらわからない。けれどここまで来たら、進み続けるしかなかった。アルセウスだ。シンオウにおける原初の神、究極のポケモン。そのようにミオシティの図書館では書かれていた。アルセウスだけはなんとしても捕まえなければいけない。アルセウスを捕まえたら、今度こそ満足してこの世界に別れを告げられるはずだという確信があった。

 が、当時あの戦線にいた者ならご存知の通り、この方法でアルセウスを捕まえることは不可能だった。わたしもひとしきりインターネットの海で流された後に、ほとんどガセだと知りながらもページに書かれた通りにたんけんセットを使い、そしてわたしはその闇に永遠に囚われ、死んだ。それはインターネットの悪意に晒された同胞たちの死と比べれば、ほとんど自殺といってよい死に方だった。届かないと知っていたのに、アルセウスに、神に届かないぐらいなら、この闇の中で死んだ方がマシだと思って死んだ。いま思い返すとゾッとするが、われわれはそれぐらいの好奇心と憧憬を胸に、次々に自ら奈落へ身を投げていったような気がする。

 幸運なことに、事態を重く見た任天堂とゲームフリークは、愚かな子どもたちの死を救済しようと、「修正プログラム」をつくり、各地のニンテンドーDSステーションなどで配布した。断っておくが、これらのヌーベルバーグ的な死はまったくの自業自得である。そもそもビデオゲームのバグを己の欲望のために故意に利用する試みが無謀であるし、その結果として永遠に闇をさまよったとしても、その責任は任天堂やゲームフリークにはない。だから、だろうか。わたしは結局DSステーションに行かず、「ダイヤモンド」のカセットをケースにしまってしまった。

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