劇場・配信の両方で完成する『アンダードッグ』 配信版で“ボクシング以外の日常"をあえて描く理由

 劇場版では、晃を主軸とし、龍太や宮木が連なる構成になっているため、この3人にある種“肩入れ”して観るという「ボクサーたちの映画」になっているのだが、配信版は「ボクサーを含む、社会の片隅で生きる人々のドラマ」だ。視聴者が受け取る印象も、作り手が放つメッセージも、意味合いがかなり異なっている。


 そして、ボクシング映画ならではの拳と拳のぶつかり合いを最大限楽しみたいなら、やはり大スクリーンと立体的な音響を楽しめる劇場版だろう。作品の構成や編集面から観ても、劇場版は試合シーンがハイライトになるように設計されている。そこに至るまでの流れも見事で、「日本チャンピオンになる」という夢から遠ざかり続けていた晃が再びガムシャラにボクシングに打ち込むまでの“助走”として、それ以前のドラマが機能している。

 晃の目の色が変わることで、バイトの職場がトレーニングの場に変化し、ボクシングと断絶していた日常が、一気に連結していく――。特に『後編』においては、2時間強を一気に駆け抜ける映画という形態の特徴を大いに利用し、晃の変化がカタルシス満載で活写されている。そのフィナーレが、龍太とのリング上での対決というわけだ。

 逆に、配信版では必ずしも晃を主人公として観なくても成立するのが面白い。明美の物語として観れば社会派ドラマになるだろうし、五朗を中心に観ていくと人情ドラマがベースになっていくだろう。いわば、主人公が集約していた劇場版に対し、それぞれの人生を追いかけていくという意味で、主人公が点在しているのだ。

 ヒロイックな“個人の物語”の側面を強め、“動”のファイトをエネルギッシュに描く映画版。リアルな“人々の物語”として、“静”のドラマを丹念に構築した配信ドラマ版。互いが互いを補完し合う『アンダードッグ』は、ダブルで観ることで完成するのかもしれない。

 新型コロナウイルスの蔓延により、劇場用の作品と、配信や放送用の作品の境界が曖昧になりつつある昨今。明確に「劇場公開する映画ならではのストロングポイント」と「配信ドラマ版だから描ける作劇」を使い分けている本作は、今後の展開を考えていくうえでも試金石といえるのではないだろうか。

■SYO
映画やドラマ、アニメを中心としたエンタメ系ライター/編集者。東京学芸大学卒業後、複数のメディアでの勤務を経て、現在に至る。Twitter

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