劇場・配信の両方で完成する『アンダードッグ』 配信版で“ボクシング以外の日常"をあえて描く理由

 『百円の恋』の監督・武正晴&脚本・足立紳が再び集い、ボクシング映画を作り上げた。2020年11月に公開された劇場版『アンダードッグ』は、前編/後編あわせて約4時間半にも及ぶ熱き人間ドラマだ。

 日本チャンピオンにあと一歩のところまで近づきながら、いまはアンダードッグ(かませ犬)として生きるボクサー、晃(森山未來)が、若き天才ボクサー・龍太(北村匠海)や、ボクシングに自分を変える光を見出す芸人・宮木(勝地涼)と戦いを繰り広げていく。

 同時に、ネグレクトなど、現代日本の社会問題を描く“弱者の物語”を並行して描いているのが、本作の大きな特徴。どん底から這い上がろうとする晃のそばには、同じくどん底の生活を送る人々が存在する。彼らの痛みや苦しみをも背負い、晃は何度でもリングへと上がっていく――。ただの爽快なジャイアントキリングものではなく、シリアスなまなざしが鋭く突き刺さる。

 本記事では、劇場版と配信版を比較しながら、それぞれの魅力についてご紹介していこう。

 

まず注目いただきたいのは、前・後編の劇場版と全8話からなる配信版が同時に製作されたという点だということ。本作はABEMAと東映ビデオが共同製作を務めており、配信はABEMAプレミアムにて、劇場配給は東映ビデオが担当、という図式だ。

 ABAMAのオリジナルドラマといえば、社会現象化した『M 愛すべき人がいて』や、センセーショナルな題材が話題を呼んだ『17.3 about a sex』、岡田建史が主演を務めた『フォローされたら終わり』等々、他の配信サービスや放送局と比べてよりSNSとの相性が良い作品を作り出してきた印象だが、『アンダードッグ』においてはクリエイターのチョイスからみても、かなり硬派なイメージではある。ABAMAは格闘技やスポーツ番組にも注力しており、その視聴者層との兼ね合いもあるだろうが、これまでとはやや意趣の異なる“肝いり”の企画であることが伝わってくる。

 企画性あふれるオリジナル番組を多く手掛けてきたABEMAが動いたということ。ここから導き出されるのは、「何か仕掛けてくる」という期待だ。そういった観点で『アンダードッグ』を観てみると、その異端さに気づく。それは、ボクシングというある種の“非日常”を、“日常”の中に落とし込んでいるということ。見せ場としてド迫力の試合シーンはちゃんと用意してあるのだが、そこに至るまでの“積み上げ”が異常なほど丹念に描かれているのだ。

 象徴的なのは、晃の「ボクシングをしていない時間」の描写。デリヘル嬢の送迎を行い、待ち時間にはぼうっとタバコをふかし、サウナでバイトし、父親の世話をし、麻雀に精を出し……といった日常が、事細かに(まるで観察するかのように)つづられていくのだ。その合間に、練習シーンや試合シーンが“挟まる”という構成になっており、いわば通常のボクシング映画とは、「試合」と「それ以外」のバランスが逆になっている。

 武監督や足立氏のインタビューを参照すると、本作における最重要ポイントは「ボクサーの日常を描く」だったという。ボクサーというアスリートの一面を描くのではなく、ボクサーという職業に就いた“ひとりの人間”を描くということ。その目線は晃に対してだけではなく、龍太や宮木においても同様だ。龍太には将来を嘱望されるボクサーの、宮木には芸人としての日常があったうえで、試合があるということ。その過ごし方によって、それぞれの個性が見えてくるというつくりは、本作独自のものといえよう。

 さらに、配信版では、登場人物それぞれの掘り下げが相当細かい。晃が働くデリヘル店の店長・五朗(二ノ宮隆太郎)や、訳ありのシングルマザーでデリヘル嬢の明美(瀧内公美)などのドラマが、エピソードによっては晃以上にじっくりと描かれる。本作が群像劇であることを強調している。

 そのため、配信版においては、ボクシングという“動のドラマ”に対する“静のドラマ”をより楽しむことができる。もともと、劇場版に比べて配信版のほうが尺が長いため各キャラクターの内面に踏み込んだ物語が展開するのだが、周囲の人間のドラマに重きが置かれているのが興味深い。

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