『マリオ35』から考える、「バトロワ系」ゲームに潜む他者性排除の論理

 2020年は、『スーパーマリオブラザーズ』が発売されてから35周年にあたる年だ。

 記念グッズやコレクション版のゲームソフトが発売されるなど様々な企画が立ち上がったが、その中でも特に異質だったのはNintendo Switch専用ソフト『スーパーマリオブラザーズ 35』の存在だろう。『スーパーマリオブラザーズ』が、最大35人対戦のバトルロイヤルと化したのだ。

 「バトルロイヤル系(バトロワ系)」ゲームと言えば、主に『PUBG(PlayerUnknown’s Battlegrounds)』(2017年)の誕生から急激に広がり始めたジャンルで、日本では米津玄師がオンラインイベントを行った『Fortnite』も同じ「バトロワ系」として一般に知られている。この流れに乗っかって、いよいよあのマリオもバトルロイヤルへの参加を余儀なくされたわけだ(「バトルロイヤル」というアイディア自体は元より存在するが、ここでは『PUBG』以降に流行した作品群を「バトルロイヤル系」ゲームとして扱う)。

 実際に「バトロワ系」をプレイしたことのある方なら、恐らくすでに実感しているように、とにかく中毒性の高い作品群である。文字通り寝る間を惜しんで、憑りつかれたように遊び続けてしまうゲームだ(筆者もご多分に漏れず遊び続け、先日ようやく『マリオ35』のランクが100を超えた)。一体何が私たちを「バトルロイヤル」に駆り立ててしまうのか、ここではその魅力、いや、魔力について、考えていこうと思う。

「バトロワ系」の分類から見る日本産ゲームの特徴

 さて、一口に「バトロワ系」といっても、『PUBG』と『マリオ35』とではだいぶゲーム性が異なる。前者ではプレイヤー同士が銃で撃ちあう対戦シューティングゲームの体裁を採っているのに対して、後者では『スーパーマリオブラザーズ』のステージに登場する敵を送りつけ合うというルールが採用されている。

 これをプレイヤー間のコミュニケーションという視点から見れば、『PUBG』では直接的、『マリオ35』では間接的なコミュニケーションが取られていると言えるだろう。ここでは前者のようなプレイヤー間のコミュニケーションが直接的なものを「デスマッチ的バトルロイヤル」、後者のように、プレイヤーが集中するのはあくまでもアクションゲームの攻略で、プレイヤー同士のコミュニケーションが間接的なものを「ミニゲーム的バトルロイヤル」と呼ぶことにしたい(この分類に従うならば、『PUBG』と同類の対戦シューティングゲーム『Fortnite』はデスマッチ的、アクションゲームを行い生き残りを争う『Fall Guys』はミニゲーム的と言えるだろう)。

 この「ミニゲーム的バトルロイヤル」に見られるような、ゲーム空間内におけるプレイヤー間コミュニケーションの間接性は、日本産ゲームの特徴として指摘されてきた(参考:中沢新一、遠藤雅伸、中川大地『ゲームする人類:新しいゲーム学の射程』丸善出版、2018年)。

 たとえば『スプラトゥーン』は、日本を代表する対戦シューティングゲームと言えようが、勝敗の基準は相手プレイヤーのキル数ではなく、インクが出る銃を用いてインクを塗った面積を競うというルールが採用されている。つまり、プレイヤー間のコミュニケーションは、どちらかと言えば「デスマッチ」的というより「ミニゲーム」寄りである。

 また、ゲーム評論家の中川大地は、ソーシャルゲームの変遷の中にも日本産ゲームの特徴を見出してきた。

「最初は『怪盗ロワイヤル』みたいにPvP(筆者注:プレイヤー対プレイヤーで直接的に行う対戦)要素がウリだったんですよ。でも、それでギスギスするのもイヤだから、カードバトル型になった『探検ドリランド』のあたりで、協力だけにしようとなった。さらにスマホ時代の『パズル&ドラゴンズ』とかになると、強いプレイヤーからレベルの高いキャラをひとり借りてくるだけでしかなくなってしまった」(前掲書、p.50)。

 このように日本産ゲームでは、たとえそれがオンラインの対戦ゲームであったとしても、プレイヤー同士のかかわりを最小限に抑えるような設計が採用されがちだ。このような傾向を持つに至ったのは、日本ではアメリカに比べてPCゲームがさほど浸透していなかったことなどが考えられるだろう。いずれにしろ言えることは、日本産ゲームはあくまでも仮想現実としてのゲーム空間そのものの楽しみを志向する傾向が根強く、そこに「現実の他者」を想起させるような要素を介在させたくないという意識が働いているのだろう。

現実世界のコミュニケーションとゲーム空間内のコミュニケーション

 しかしながら、近年の動向を見れば、プレイヤー間コミュニケーションの間接性が日本固有の特徴とは言い難くなってきた。というのも、今や日本のプレイヤーは当たり前のように『PUBG』や『Fortnite』といった「デスマッチ的バトルロイヤル」ゲームをプレイしているし、何より”日本で一番売れたゲーム”となった『あつまれ どうぶつの森』は、「現実の他者」とのコミュニケーションを前提として設計されているからだ。

 このような傾向を見ると、日本産ゲームに顕著だった、仮想空間を演出する虚構としてのゲームの魅力が弱体化したかのように、あるいはゲームが単なる現実のコミュニケーションツールになり下がってしまったかのように思えるかもしれない。この見方は、ある側面では正しい。

 しかし「バトロワ系」ゲームをよく観察してみれば、ゲームが現実のコミュニケーションに侵食され、虚構としての力を失っているとは必ずしも言い切れない。

 むしろ、「バトロワ系」ゲームにおいてプレイヤーキャラ同士の能力差が排除されているように、「現実の他者」同士が(ゲーム空間内で)平等な関係でいられるという現象自体は、極めて非現実的/フィクショナルである。

 なぜなら、現実世界のコミュニケーションは往々にして、時に悲しいほどに不平等だからだ。思い起こしてみてほしい。生まれた場所、受ける教育、体型といったランダム要素が本人の後天的能力に多分に影響するのが、現実世界のコミュニケーションではないか。言うなれば私たちは、主人公が勝手に決められてしまうリセット不可能のバトルロイヤルに参加しているようなものだ。

 さらに今日のような、インターネットを通じてあらゆる他者と繋がれる時代においては、不平等を感じさせる他者性(自己と他人との差異)は強調されてすらいる。たとえばSNSではフォロワー数やいいねの数、時には見た目や声などの身体的特徴が本人の発言力に大きく影響するし、また、人種や性別などによる差別が現代社会にはまだまだ根深いことが(たとえばハッシュタグという形で)可視化されてもいる。

 だからこそ現実では多様性の尊重や多文化主義といった思想が広がっているが、「バトロワ系」のゲーム空間で行われているのは、むしろ徹底した他者性の排除である。『マリオ35』や『PUBG』などの作品において、キャラクター間の能力差(=他者性)が排除されることで、「現実の他者」同士が平等なコミュニケーションネットワークを築くことができる。要するに「現実世界では平等を求めて無数の他者性を許容しようとしてもきりがないから、バーチャル世界においてはいっそすべてなくしてしまえ」というわけだ。

 一方で、徹底した他者性の排除は、同時に自己のアイデンティティのはく奪をも意味する。なるほど他者性を一切排除してしまえば、たしかにすべての人間は「平等」である。しかしそれは、自分自身が入れ替え可能な存在であることを、すなわち己の身体が無価値であることを認めることに他ならない。

 そこでバトルロイヤルに参加した私たちは、「生き残った勝者」となることで他者性(=アイデンティティ)の獲得を目指すのである。あるいは勝利することがかなわなくても、キャラクタースキン(プレイヤーキャラクターの見た目だけを変更するアイテム)に「課金」することで、手軽に他者性を獲得できる。

 このように私たちは、一旦は他者性を一切排除したバトルロイヤルに参加することで、「現実の他者」との平等な人間関係を体験することができる。その上で自分(のチーム)の他者性だけは承認してもらおうと、「生き残った勝者」を目指すことに躍起になってしまう。言うなれば「公正な他者性」とでも呼ぶべきものを求めて、私たちは「バトルロイヤル」の魔力に憑りつかれてしまうのだ。「バトルロイヤル」に勝ち残ったとき(いわゆる「ドン勝」)の優越感や快楽には、他の対戦ゲームとは一線を画するものがある。

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