神保哲生に聞く「放送制度改革」の本質:放送自由化の必要性と、解決すべき日本固有の問題
安倍政権が目指している放送制度改革で、「政治的公平性」などを定めた放送法4条を始めとする放送関連の規制を全廃する方針が伝えられている。実現すればメディア環境が大きく変わるものだが、これは何を意図したもので、どんなメリットと、どんな問題をはらんでいるのか。放送をめぐる問題に詳しいジャーナリストで、ニュース専門ネット局 ビデオニュース・ドットコムの代表を務める神保哲生氏に、議論の本質を読み解くためのポイントを聞いた。(編集部)
放送法が抱える“根本的な問題”
ーー安倍政権から「政治的公平」などを定めた放送法4条の撤廃を含む、放送改革の議論が出されています。政局的な議論なのか、放送のあり方をめぐる議論なのかわかりづらい部分もあり、論点を整理したいと思うのですが、どこに注目して読み解くべきでしょうか。
神保哲生(以下、神保):放送法の改正は、憲法改正とセットになっていると見るべきでしょう。安倍政権の最終目標である憲法改正を実現するためには、国民投票で過半数の賛成を得なければなりません。それを確実なものにするためには、憲法改正に向けて世論をコントロールする必要があります。安倍政権が世論に大きな影響を持つ放送というメディアを押さえたいと考えることは、自然なことだと思います。
当初はそういう目論みだったと思いますが、その後、モリカケ問題が再燃し、安倍政権には憲法改正を押し通すためのポリティカル・キャピタル(政治的資源)がほとんど残っていません。とりあえず観測気球を打ち上げておいて、野党や世論の反発が強ければ、無理に押し通すこともないと考えているのではないでしょうか。
ただ、市民社会としては、放送法については今のうちに解決しておかなければならない課題があります。そもそも現行の放送法に、根本的かつ致命的な欠陥があり、それが放送法4条問題を難しい政治問題にしてしまっている。これを解決せずに4条を削除するのは最悪の選択だと、私は考えています。
ーー放送法の「根本的問題」とは。
神保:それは日本では放送免許が政府から付与されているという問題です。よく放送法4条をめぐる議論の中で、アメリカでは同様の規定だったフェアネス・ドクトリン(公正原則)が1987年に廃止されたことで、「政府の介入ができなくなった」という話が聞かれますが、この指摘には根本的な誤解があります。
日本もアメリカも、そもそも憲法で表現の自由が保障されていて、「政府による検閲はできない」ことが定められているので、政府が放送内容に介入できないのはフェアネス・ドクトリンの有無に関わらず、自明のことなんです。アメリカのフェアネス・ドクトリンは、政府が放送事業者に政治的に中立・公平な放送を要求しているのではありません。あくまで政治的中立性は放送事業者が自らを律するものでなければならない。そうでなければあからさまな憲法違反となり、訴えられたら一発で負けてしまいます。
日本も憲法21条で表現の自由が保障されているので、放送法4条もそのような枠組みの中で捉えられなければなりませんが、それがそうなっていない。それは、アメリカの放送局がFCC(連邦通信委員会)という独立行政委員会から免許を付与されているのに対し、日本の放送局は政府から免許を付与されているということです。放送局にとって政府は、最優先で監視しチェックしなければならない最強の権力です。その政府から免許をもらっている放送局は、チェックする対象から生殺与奪を握られていることになります。
戦後、日本の放送行政はGHQが抜本的に改正し、日本でも放送免許は電波監理委員会という独立委員会が付与する仕組みになりました。ところが、サンフランシスコ講和条約によって主権を回復した日本は、4月1日に施政権を回復した3ヶ月後には電波法を改正し、電波監理委員会を廃止してしまいました。そして、放送免許は戦前と同じように、政府から直接、付与される体制を復活させてしまいました。
これが、日本の放送をめぐる根本的な問題です。政府が放送免許を付与し、停波もできるというのは、独裁国家であればいざ知らず、民主主義国家としてあまりにも異常なことです。放送法4条が、政府が放送内容に介入できると解釈されている理由も、そもそも免許を付与しているのが政府なので、政府はその免許を取り上げることができるという論理の上に成り立っています。
実は放送事業者を制約しているようにも読める放送法4条も、逆説的に政治の介入に対する盾になっています。政府が放送内容に介入してきた時、放送事業者は「放送法4条で政治的な中立性が要求されているので、それはできない」と突っぱねることができるからです。放送事業者が政府から免許をもらっている現在の異常な体制を維持したままで、もし放送法4条が廃止されてしまえば、放送事業者が政治の介入を突っぱねる根拠を失ってしまうという、ということです。
日本では放送法4条をあれこれ議論する前に、まず免許の問題をきちんと論じる必要があります。アメリカのFCCのように、まずは一定の中立性・独立性が担保された透明性のある独立委員会が放送免許の付与を行うようにしなければなりません。それができて初めて、放送法4条の是非を論じる意味が出てきます。
ーー独立性が担保された第三者機関が放送免許を交付する、という仕組みができる可能性はありますか?
神保:本来は自由な言論を実現する上で最低限の条件だと思いますが、日本ではそれさえもかなりのハードルがあります。残念ながら安倍政権以降の日本では、いわゆる三条委員会と呼ばれる独立行政委員会が、本来の中立性や独立性を失ってしまったからです。
日本では日銀の総裁や内閣法制局長官、NHKの経営委員、証券取引監視委員会や公正取引委員会、原子力規制委員会などの委員は、独立性を担保するため「同意人事」によって選ばれてきました。この同意人事というのは国会の同意を得ることを意味していますが、単なる過半数による同意ではなく、国会において望むべくは全会一致、少なくとも最大野党は賛成する形で同意を得ることが不文律になっていました。しかし、不文律というのは明文化されていないから不文律なわけです。法的な拘束力はないので、もしその不文律を破る政権が出てきた時、法的に太刀打ちすることができません。結局は有権者が次の選挙で意思表明をするしかない。
安倍政権は内閣法制局長官やNHK経営委員、原子力規制委員会などの人事で、ことごとく不文律を破り、与党の過半数で「同意人事」を押し切ってしまいました。そのような状況でFCCのような独立行政委員会を作っても、与党が管理するのと同じことになってしまう可能性があります。そのため、放送免許を付与する独立行政委員会を作るだけでは無意味です。まずは国家行政組織法を改正し、独立行政委員会における人事の中立性や透明性を確保しなければなりません。
公正原則を撤廃したアメリカで何が起こったか
ーー日本においては周回遅れの議論だということですが、実際にフェアネス・ドクトリンを廃止したアメリカでは、どんなことが起こったのでしょうか。
神保:フェアネス・ドクトリンは、電波の希少性という観点から公平な放送を求める規定です。発行しようと思えば誰でも発行できる新聞や雑誌には何の規制もありませんが、放送は国民の資産である希少な電波を利用するので、一定の制限をかけるべきだというのが、その根拠でした。
ただ、1980年代のレーガン政権の頃には放送事業にケーブルテレビ局が大量に参入してきて、電波の希少性という前提が崩れてきました。規制を嫌い、市場原理を尊重するレーガン政権の新自由主義的な機運もあり、1987年にFCCはフェアネス・ドクトリンを撤廃しました。
この時の議論は、放送市場も市場原理に委ねた方が多様な放送が生まれ、国民はより真実を知ることができるようになるはずだ、というものでした。
しかし、この議論には、一つ重大な欠陥がありました。それはどんなにチャンネルが増えても、視聴者側の個々人の可処分時間が増えるとは限らないということを見落としていたことでした。一個人が一日にテレビを見る時間には限界があるので、チャンネルの選択肢が増えたからといって、視聴者がいろいろなチャンネルから多様な情報を得るとは限らないということです。
実際、視聴者は多くの異なるチャンネルから多様な情報を得るというよりも、見慣れたチャンネルを見続けることになる。ところがフェアネス・ドクトリンは撤廃されているので、各チャンネルは思い切って偏った内容の番組を放送した方が、固定客を得やすい。日本でいう“タコツボ化”が生じ、結果的にこれは極端に偏った政治信条の持ち主を大勢生み、アメリカ社会の分断を進めてしまった可能性が高い。
自由化して市場原理に委ねればどんな問題でも解決する、という新自由主義的なアプローチが、必ずしもいい結果を生まなかった好例となってしまいました。
ーーそのことを事前に想定するのは難しかった。
神保:そうですね。アメリカでもテレビは長らく一握りの地上波チャンネルしかない時代が続いていたので、いざ多チャンネル化が実現した時に、それが視聴者の視聴習慣にどのような影響を与えるかを断定的に予測するのは難しかったと思います。
ーー日本にもケーブルテレビやCS放送はありますが、多チャンネル化したというイメージはありません。
神保:日本の場合はそこが問題だと思います。日本に先駆けて多チャンネル化が実現したアメリカでは、先ほどお話ししたように、現実には個々人が見るチャンネルは固定化される傾向がありますが、とは言え、その気になれば多くの選択肢が用意されていて、情報をバランスよく受け取ることが可能になっています。
ところが日本は、特に報道においては記者クラブなどの特権的な問題もあり、CSが始まってもニュースに参入するのは結局、民放キー局の5系列だけです。せいぜい、CSやケーブルではBBCとCNNが細々と放送している以外は、5系列以外のニュースチャンネルは一つもできていません。それは日本には有形のもの無形のものを含め、数多くの参入障壁があり、既存のメディアが莫大な既得権益になっているからです。メディアの構造問題は、先ほどの免許の問題と並んで、日本が真剣に考えなければいけない問題です。
メディアが少数の担い手に握られ、その少数の担い手が政府と色々な面で持ちつ持たれつの関係にあることが、日本で市民社会がさまざまな意味で物事を深く広く知ることの妨げになっていることは間違いありません。政府が一握りのメディア事業者に記者クラブやクロスオーナーシップなどの特権を認め保護する一方で、その事業者と持ちつ持たれつの関係を維持するような現状は、日本の民主主義の弱点になっていることは、先の国連人権委員会の報告書にも指摘されています。
日本もメディアの参入障壁を下げ、放送を自由化することは、基本的には必要なことだと考えていますが、その際に、アメリカといういわば失敗の先行事例があるわけですから、まったく同じ道を後追いするのではなく、アメリカでうまくいかなかった部分については、周回遅れの特権として、その教訓を活かすべきだと思います。