『ゴジラ-0.0』は“究極の怪獣映画” 『ALWAYS 三丁目の夕日』以来のリアリティが結実

 山崎貴監督の映画『ゴジラ-0.0』が11月3日に公開された。米アカデミー賞の視覚効果賞を受賞した前作『ゴジラ-1.0』(2023年)から、さらに進歩したVFXをたっぷり使って、巨大生物によって破壊され蹂躙される家々や人々を描き、観客に恐怖を与える。そして同時に、大勢の人に悲しみをもたらす戦争を、それで止めようとしない人類への問いを含んで描き、最高の怪獣映画だと快哉を叫びたい気持ちをすんなりとは解放させない。

 まだ早い。公開されて間もない『ゴジラ-0.0』に、“主役”のゴジラはともかく他にどのような巨大生物が登場して、どのような行動を見せるのかを細かく語っては、これから観る人の興を削ぎかねない。だから今は、ゴジラとは別の巨大生物が登場して、大いに暴れ回ったあげくにゴジラと激突するとだけ言っておく。

 そしてそれは、昭和のゴジラ映画が全盛だった時代に育った世代や、「平成VSシリーズ」と呼ばれる映画を観て育った世代、およびゴジラ映画に刺激されて作られたさまざまな怪獣映画や、テレビの特撮番組を楽しみにしていた世代が、満足という言葉ですら足りないくらいの感銘を覚えるほどの、迫真性を持った激突になっているとも言っておく。

 つまりは、究極にして至高の怪獣アクションが観られるということだ。

 2体の巨大な生物が、それぞれに持っている重量を感じさせながら動き、パワーを放ちながら激突する。それぞれに熱線や光線を繰り出して相手を傷つけ、弱らせながらそれぞれがとてつもない生命力で復活し、手足なり首なりを繰り出してぶつかり合う。

 その様子は、決して着ぐるみによるレスリングや相撲のような格闘ではない。もしもそれぞれの巨大生物が実在して、本能のままにぶつかり合ったらどのような光景が繰り広げられるのか、どのような衝撃が周囲を包み込むのかといった想像に応えている。なおかつその想像を、大きく上回る迫力を、スクリーンの中に現出させている。

 それは、「怪獣プロレス」と呼ばれたものとは確実に一線を画している。最初の『ゴジラ』(1954年)から数作は、社会性や文学性を持った大人向けの映画だったが、次第に子供が娯楽として楽しめるような映画を目指していく中で、着ぐるみによる怪獣たちの派手な激突を描くようになっていく。

 子供たちは、現実では絶対に見られない巨大な怪獣たちの激突シーンを、夢のあるものとして楽しんでいた。だが、大人たちの目には、着ぐるみがぶつかり合っているようにしか見えなかっただろう。怪獣映画で育ち、夢をもらってきた人でさえ、一種の様式美として味わいつつ、リアルな怪獣同士の激突とは違うものだと認識していただろう。

 その後CGが登場し、進化して普及していくなかで、あらゆるものがCGによってリアルに再現できるようになっていった。怪獣どうしの激突も、最高のCG技術を使えば、夢に描いたリアルで迫力があって重量感もたっぷりのものを作り出せるといった期待が浮かんだ。

 けれども、ハリウッドで作られた「モンスター・ヴァース」シリーズの中の『ゴジラvsコング』(2021年)を観ても、巨大な生物が映像としてぶつかり合っていたとしても、そこに怪獣映画のファンが理想として思い描いたビジョンはなかった。スピーディーに動くゴジラやコングからは、理想の怪獣アクションを見せてくれたという喜びは浮かばなかった。着ぐるみが戦うという「怪獣プロレス」としての様式美も失われていた。

 『ゴジラ-0.0』は違った。デザインの段階から徹底して生物としての生々しさを持たせつつ、モンスターとしての強さや凶暴さも乗せた上で、CGの技術で映画の中に現実に存在していそうな生物として現出させた。なおかつ「理屈ではCGと理解していても、肉眼で見ているかのようなリアリティによって本能的な恐怖を感じて」(『ゴジラ-0.0』パンフレットの山崎監督インタビューより)もらえるように表現を追求した。

 そうしたアプローチは、『ALWAYS 三丁目の夕日』(2005年)で昭和33年の東京に生きる人たちを描き、『BALLAD 名もなき恋のうた』(2009年)で戦国時代の山城で戦う姫や武将を描いたときと変わらない。基本は時代や状況に即したリアルな舞台や人物像を目指し、想像の中の時空をスクリーンの中に作り上げ、観客に2時間ほどのタイムトラベルを体験させた。そこに少しだけ、エンターテインメントのスパイスを加えて、物語として楽しんでもらった。

 『ゴジラ-0.0』では、現実と地続きの場所にいるのだと観客に思わせるようなそうしたリアルさが、楽しさではなく恐ろしさを煽り立てる。本当にそうしたことが起これば、こうなってしまうのだということを突きつけられて戦慄する。

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