大谷亮平“節目”の写真集『ROAD AHEAD』インタビュー ソウルで見せた“ありのままの自分”

 モデルとしてキャリアをスタートさせ、韓国での躍進を経て日本へと拠点を移した大谷亮平。芸能活動20周年、日本デビュー10周年を迎えた2026年、原点ともいえるソウルで撮影した写真集『ROAD AHEAD』を刊行する。“ありのままの自分”で撮影に臨んだという写真集の制作エピソードから、公開を控える映画『遥かな町へ』『3ミリの恋』への思い、そして独自のキャリアや人生観について話を聞いた。

写真集のタイトル『ROAD AHEAD』に込めた思い

――まずは、写真集制作の感想から聞かせてください。

大谷亮平(以下、大谷):出されている方はたくさんいらっしゃいますが、僕自身はカレンダーも含めて、あまりそういうものに縁がないと思って生きてきました。写真集に対して、「アイドルの方やキラキラした人たちが出すもの」というイメージがすごく強かったんです。そんな中、日本での節目も含めて「何かするにはいい年だよね」という話を移動車でボソッとしたことがあって。マネージャーさんがその言葉をキャッチして、「だったら何かしましょうよ」と水面下で動いていてくれたんです。写真集を出せる人生になるとは思っていなかったので、本当に不思議で特別な機会をいただきました。

――“今”を切り取って形に残すというのは、素敵なことですよね。

大谷:そこにこだわりたかった、というのはありますね。衣装を選んだりヘアメイクをしたりしたこと以外は、あまり「写真集を撮っている」という感覚がなくて。もちろん最初のカットは少し構えたりもしましたけど、途中からはずっと食べ歩きみたいな状態で撮っていました。ポーズを作るようなことも一切せずに進めたので、後々見返した時に「この時ってこんな感じだったんだな」と思えたらいいなと。だから、あまりカッコつけずに“まんま”で臨みました。

――表紙の写真も、とても印象的です。

大谷:これも「表紙用に撮りますよ」と狙ったわけではなくて、むしろ力が抜けた瞬間……たぶん(おでこが)痒かったんでしょうね(笑)。「作っていなくて自然でいいね」ということで採用されて、表紙になりました。自分で選んだというよりは、写真やタイトルも含めて、スタッフみんなで話し合って作り上げた感じです。

大谷亮平 1st写真集『ROAD AHEAD』

――となると、写っているのは“俳優”としての姿ではなく、“素”に近い状態?

大谷:素に近いと思います。これが日本国内での撮影だったら、やっぱりどこかで視線を感じて「俳優」の部分が勝ってしまったと思うんです。でもソウルだと、知ってくださっている方はいても騒ぎになるわけでもないので、すごく自然体でいられました。「見られている」と意識すると気を張ったり余計な力が入ったりしますけど、今回は本当にぶらっとソウルに行った感覚のままでいられましたね。

――ロケーションに韓国を選ばれたのは、ご自身の希望だったのでしょうか。

大谷:僕の芸能活動のルーツが韓国にあるので、「周年の記念として出すなら原点のソウルがいいんじゃないか」というマネジメント側からの提案でした。僕自身、その話を聞いて「それがいいな」と。

――肉体美も披露されていますが、撮影に向けて体づくりもされたんですか?

大谷:いえ、このために特別なことはしていないです。普段からバレーボールやトレーニングはしているので、苦しんで体を絞るようなことも、「写真集の撮影があるから、何セット多く追い込もう」ということもなく。これもまた、ありのままの姿でいいかなと思っていました。

――(笑)。実際にソウルで撮影されて、ご自身のキャリアを振り返るきっかけにもなったのでは?

大谷:ソウルに決めたのも「原点に戻る」という意味合いだったので、なじみのある場所やお店を巡りながら、懐かしむ撮影になるだろうなと思っていました。でも、今回初めて行く場所もありましたし、撮影の1カ月ほど前に僕が主演した韓国映画が公開されて、それが日本に帰ってきてから初めて参加した韓国作品だったんです。

――すごいタイミングですね。

大谷:それまで僕は、「韓国=すべてが過去であり、懐かしい思い出の場所」という意識がすごく強かったんですよね。だからインタビューで韓国の話になると、どうしても「過去の話」として語ってしまう。「終わった場所だ」と勝手に思い込んでいたんです。でも、実際に現地へ行って、今まさに進んでいる作品があって、さらには知らない場所や新しい出会いがあることを実感した時に、「あ、全然終わっていないな。これからも楽しく付き合っていける場所だよな」と気づかされました。過去からずっと続いていて、今を通過して、この先も続いていく一本道。写真集のタイトルにはそうした思いを込めているのですが、ふと現場でそんなことを感じました。

――たしかに、「韓国」「日本」と区切らずにフラットに考えることもできますよね。

大谷:韓国での活動にケリをつけて日本に戻ったからこそ、頭の中が「日本だけ」になっていたのかもしれませんけどね。しばらく韓国での作品に出ていなかったので、「もう向こうで仕事することはないのかな」と思うこともありましたから。

――韓国での活動を経て、あらためて日本で再出発を決意された時には不安や怖さはありましたか?

大谷:韓国で俳優として活動する中で、どうしても言葉の制限やストレスは常に抱えていて。「日本語で芝居ができたら」という思いは漠然と持ち続けていました。だから、日本での活動が決まった時には、ずっと抱いていた思いが運良く結びついて「いよいよ時が来たな」という感覚でした。

――もし20代のデビュー当時から日本で活動していたら、どうなっていたと思いますか?

大谷:たぶん、やめていたんじゃないですかね(笑)。20代の時に日本の事務所とお話しする機会もあったんですが、結局スタートを切ったのは30代半ばで。直感ですけど、あの時に日本でスタートしなくて良かったなと思います。韓国での10年間は常に葛藤があったけれど、ソウルを離れるという選択はしなかった。それに今ソウルのことを思い出しても、仕事以上に友人たちと過ごした日々の記憶が鮮明に浮かんでくるんです。そういった生活そのもののほうが、自分にとって大きな財産になっているなと感じます。

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