『オデュッセイア』の複層の魔術を読む 極限体験とエンタメ、叙事詩と考古学、神話と実存

【思想のレイヤー】:古代から現代へ跳躍する「Leap of faith」

 この映画を貫く通奏低音は「ゼウスの掟(クセニア)」である。

 『影響力の武器』(誠信書房)など社会心理学でも語られる、貸し借りの「返報性」を神の権威が担保するものだ。この不文律を守れば、命がけだった航海の安全が守られる互恵性が古代の地中海をゆるやかに支配していたが、イタケでは怠惰な求婚者たちにハックされ、この規範の境界線は崩れている。当のオデュッセウスもまた、ヘロドトス以来アジアとヨーロッパの争いの起源とされてきたトロイア戦争で両軍の膠着状態を破るため、地中海の広域交易を統べていたこの規範をハックする作戦を仲間たちの汚物にまみれながら断行する。

 オデュッセウスは戦いに勝ち、この規範の「外部」へ出たことで放浪する。

 「ポセイドン」や「ゼウス」だったはずの荒波と雷鳴を浴びながら、「神」=自然の気まぐれさ、ランダムな荒々しさへと肉薄する。「神」とは荒々しい自然、「物自体」のような自然をそう呼んでいたのだ。IMAXで描かれるむき出しの粗野な自然、これこそ現代人にとって豪華な映像体験となる。建築家レム・コールハースが現代の都市を考察する上で語った “Luxury is rough.”というテーゼにも通じるのではないか。

 彼にはもう、人間同士の信頼を破壊したことで取り憑く後悔は「弔う」ことでしか振り払うことができない。「弔う」ことでトラウマの反復を振りきり、記憶を忘却することで前に進む力を取り戻すしかない。古代世界を統御した神が後景に退いた黄昏で、個人が何をよりどころに生きるかをテーマとした「近代文学」が先駆け的に立ち現われるのだ。

 オデュッセウスが独り生き延びてカリュプソ(シャーリーズ・セロン)の庇護のもとから再び漂流を決意する時、神を信じることはもはや運を天にまかせることだと悟っているはずだ。カリュプソは彼を見送る際に、必要なのは「Leap of faith」だと語りかける(※2)。確証はないが、自分を信じて決断する命がけの跳躍。映画『インセプション』(2010年)でサイトウ(渡辺謙)がコブ(レオナルド・ディカプリオ)に語りかけた台詞の再来であり、神への信仰から個人の決断へ移行するキルケゴールの実存主義哲学をまとめる一言である。オデュッセウスは古代の神々の世界にありながら神々が加護する天井を突き破り、自分の身は自分で助けるしかない「近代」へと飛び出しているのだ。

 船の断片を集めた筏で荒波に身をまかせる。帰還できるか不確実なネガティブ・ケイパビリティがはりつめる局面であり、個人による倫理が生成する場に観客は立ち会わされる。Leap of faith、神による保証はないが、主観的な予感をたよりに漕ぎ出し、運を味方にして流離うしかない。

 カリュプソは言う。「それでも神はあなたを見殺しにはしないだろう」と。

 筆者はこの場面こそ『オデュッセイア』のクライマックスであるとしたい。

 神が退いてよりどころのない個人が追い込まれた極限状況での生の肯定は、過去の名作に何度も現れたし、現代人の孤独と再生を描く未来の映画にも形を変えて現れる=「永劫回帰」するだろうからである。

 この後、物語のレイヤーが再び浮上し、展開は速くなる。英雄帰還譚を説いた国文学者・折口信夫が言う「来訪神」さながら、身なりをやつして妻子の待つ故郷イタケに帰還したオデュッセイアが強弓の弦を美しい音で鳴らしてからは、時代劇も驚く大立ち回りで勧善懲悪のエンタメへなだれこみ、わかりやすさのカタルシスで息をつかせない。

もう一つの読みの可能性

 ノーランが実現した、動員も評価も定まりつつあるこの傑作にも、先ほどのレイヤーに従って異なる読み方ができる分岐点があると考える。2点あげておきたい。

 1つは【思想のレイヤー】での別の読みである。

 ノーラン版オデュッセウスは『オッペンハイマー』(2023年)から追求してきたテーマに寄せて、人間同士の相互信頼を破った罪悪感に向き合う厳粛な英雄として描かれる。罪を背負って弔う主人公の描き方は贖罪的で、特にアメリカなど現代に対する反戦的な社会批判として成り立ちやすい。

 しかし、混沌とした現代に観客にメッセージを残すなら、映画で描かれたような加害を弔い・贖う責任ある主体であるよりも、過去は過去として切り換え場面に応じて知略を駆使して生きる姿の方が個人の倫理として実践的とも言えるかもしれない。ホメロスが描いたオデュッセウスは、彼を加護するヘルメスに似て、傷つきながら忘却もする機知と遊び心に富むトリックスター的な主人公像ではなかっただろうか。

 もう1つは上記とも関わる【物語のレイヤー】での別の読みである。

 後期青銅器文明が鉄への文明の変化に伴う規範の衰退とともに滅び、暗黒時代が到来し、映画もそこで終わる。ホメロスと同時代を生きたヘシオドスの時代区分を下敷きにして、史実と神話を大胆な仮説で結合しており、辻褄は合っている。

 ただ、鎧で武装した巨人族がその恐怖の表象だったと推測される鉄の技術⸺『銃・病原菌・鉄』(草思社)でジャレド・ダイアモンドが世界史を動かす三大要素として描いたあの鉄である⸺、ヒッタイト滅亡を機に暗黒時代に広まって農業と武装の民主化が進み、そのことで理性が台頭したギリシャのポリス、そしてローマから豊かな文明が花開いたことも史実とされる。青銅器から鉄器への文明の変化に人の心や倫理のあり方も変化したはずだ。その端境期に生まれたのがオデュッセウスというトリックスターだとすれば、この映画は「規範は絶対で、それを守らなければ暗黒が訪れる」という警告ととらえるよりも、同時代のルールを破る挑戦が一時的に過酷な結果を招くにせよ、ポジティブなリセットにつながることを暗示しているのではないか。

 ノーランは今、歴史の先端で現代の映画産業を背負っている。

 勧善懲悪なスペクタクルの性格を色濃くすることで観客の集中力を持続させ、現代人が欲する「没入できる非日常体験」を提供している。これだけで十分すごいことだが、直前に記した思想や物語上での挑戦は、別の読みを観客が注意深く解釈できる余地を周到に残しつつ、娯楽大作に「真実らしい魔術」をかける手法としての叙述に抑制されている。

 とはいえ、映像/物語/思想の三層、特に物語の位相で叙事詩と考古学を重ねたことで⸺『文章読本』(中公文庫)の三島由紀夫の分類に従えば⸺一度見た観客を「面白かった」と劇場を後にする「普通読者(lecteur)」から、その奥深い射程を読みこませる「精読者(liseur)」へと沼らせる奥行きをこの作品が持っていることも確かである。

 この映画は誰でも手にできる古典の扉を開き、我々が知る古代ギリシャより太古の、洞窟のような謎を照らし出した。たとえば考古学者エリック・H・クラインの『B.C.1177 古代グローバル文明の崩壊』(筑摩書房)をひとたび読めば、ノーランという物語の魔術師が縫合する前のこの時代についての考古学的な史実とその謎に没入することができる。

 彼の仕事はエンタメ産業の突端としての現代人への応答だが、その影響は「人文知」の復権となる可能性があるのだ。彼がホメロスから作家的な力を得たように、AIが席巻する時代に人間が新しいアイデアを得るのは古典かもしれない。人間は現実から一度遠く離れることで、より強く回帰できることは、ノーランが繰り返し描いてきたことでもあるのだ。

参照
※1. この点について手軽に読めるものとしては本文でふれたエリック・H・クラインの著書のほか、古代エジプトを専門とする研究者の有村元春によるXの記事がある。https://x.com/011235Moto/status/2100945184188256733
※2. 英文のセリフについてはネイティブである山口波子沙氏の協力を得た。

■公開情報
『オデュッセイア』
全国公開中
出演:マット・デイモン、トム・ホランド、アン・ハサウェイ、ロバート・パティンソン、ルピタ・ニョンゴ、ゼンデイヤ、シャーリーズ・セロン
監督・脚本:クリストファー・ノーラン
製作:エマ・トーマス、クリストファー・ノーラン
配給:ビターズ・エンド、ユニバーサル映画
© 2026 UNIVERSAL STUDIOS
photo by Melinda Sue Gordon © Universal Studios. All Rights Reserved.
公式サイト:https://odyssey-film.jp
公式X(旧Twitter):https://x.com/odysseyfilmjp

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