『オデュッセイア』の複層の魔術を読む 極限体験とエンタメ、叙事詩と考古学、神話と実存

※映画『オデュッセイア』の結末の内容にふれますので、これからご覧になる方はご注意ください。

 映画作家クリストファー・ノーランは映画という確立された表現ジャンルを背負って立つ創作の雄である。ノーラン自身がIPブランドとなった巨大ビジネスとして映画産業を生かし、映画史に残る新たな古典として名を残せるかが命題である。そのために彼が温めてきた題材である世界最古の叙事詩を、刺激に慣れた現代人に響くように換骨奪胎して3時間没入させられるエンターテインメントに演出しなければならない。

 ノーランは記録的な興行収入と「最新の古典」を同時に狙うために、古今東西の物語の原型ともいえる神話を複数の層において「創作を真実に見せる」高度な魔術(trick)をやりとげて、ダークだが間口の広いスペクタクル娯楽大作に仕上げている。

 その複数の層をあらかじめ要約しておく。

【映像のレイヤー】
 難破・海難・遭難、狭い閉所に閉じ込められるといった極限の生存体験をノンフィクション的に撮影し、「信頼できない語り手」による叙述の迫真性へ転用している。
【物語のレイヤー】
 B.C.12世紀の古代ギリシャを舞台に交わらずに並走する叙事詩と歴史を織り交ぜることで、「帰還する英雄」と「謎の集団」をつないでループさせている。
【思想のレイヤー】
 古代ギリシャの過渡期で神が担保していた人間同士の信頼が形骸化した状況で、現代人が切実に共感できる個人の倫理を描いている。

 「虚と実を重ね合わせる」ことは劇作家として重要な資質だが、それを映像/物語/思想という複層で統合することは、卓越した構成力を要求する離れ業である。トップレベルのスタッフとキャストを率いてそれを実装する手腕は魔術的だといっていいだろう。「絶妙な虚構」を練り上げる英文学専攻らしい純文学作家的な純粋さと、一大プロジェクトの実現をマネジメントするゼネラルマネージャーのしたたかさが共存している。

 大物監督のキャリアを集大成するこの仕事を読み解くことは世界史にも映画史にも素人である筆者の能力を超えてしまっているが、レイヤーを1つずつ概観していく。

【映像のレイヤー】極限体験のIMAXスペクタクル化

 ノーランはまず物語がどうというよりも、何でもスマホで済んでしまう時代に現実体験に対抗するように(それもIMAXという客単価の高い箱の中で)映画館に足を運ぶ理由から設計している。

 音響は物質的で、恐ろしさの描き方はフィジカルで、航海での遭難や、戦争の作戦決行という極限の生存体験に立ち会わせる体験を実装している。

 『ダンケルク』(2017年)をはじめとする過去作が「習作」でもあったかというように、命からがらの切迫した海難の場面やせまい空間での水難の迫力を、神に押し流される難破船やトロイの木馬の内部の描写に用いて創り話の迫真性を保っている。観客は「現代よりも過酷だ。古代人はどんだけ体力があるのだ」と圧倒させられ、身の危険を体感しながらも現代のましさを実感するという崇高(sublime)な体験を味わうことができる。

 「冥府(Hades)」の場面の昏さは不気味な中に郷愁的な懐かしさを与える。古代楽器を使ったゴランソンの劇伴も、緊迫する場面と共犯して観客の動悸を上げるように煽ってくる。「新しい古典」たらんとしてリアルな映像体験に没入させるために、デジタルに頼らないアナログ撮影のエピソードは枚挙に暇がない。これまでに培った蓄積と物量で過酷なロケを敢行しており、映像的・音響的な強度は文句のつけようがない。

【物語のレイヤー】叙事詩と考古学を縫い合わせる仮説

 原作は『スターウォーズ』(1977年)に影響を与えた神話学者ジョーゼフ・キャンベルを持ち出すまでもなく、英雄帰還譚の原型となった世界最古の叙事詩であり、古今東西の文学・映画で変奏されてきた堅牢な構造を持っている。映画はこの原典に敬意を払い、忠実に寄り添うようでいて、現代人が共感できるように叙事詩と並行する考古学的な知見をベースに、史実によって脚色している。

 「思想のレイヤー」で述べるように、この時代は青銅器の交易を支えてきたクセニア(「ゼウスの掟」とキーワード化される)=「人間同士の信頼」が形骸化し、クセノフォビア=「異質な他者への恐怖」が侵入してくるという過渡期である。

 そうした畏怖の反映といえるのがオデュッセウス(マット・デイモン)らが食糧を求めて上陸した島で出会う超常現象である。一つ目の怪物ポリュペーモスは洞窟で羊と暮らしてチーズを貯蔵したり、酒を飲んで寝てしまう荒唐無稽な挙動で、不気味さと滑稽なあわれみが同居している。

 次の島で逃げ遅れる部下を殲滅する巨人族ライストリュゴネス族は、鉄器という新種の異文化がもたらす恐怖の表象ともとれる。意思疎通ができないことからも青銅器文明の調和を破る異文化とのコミュニケーション不安と言い換えられるのではないか。

 英雄が帰り道に遭う異形との遭遇は、トロイア戦争を掟破りの作戦で勝った罪悪感に憑かれた「信頼できない語り手」のトラウマが映す幻像だと弁明できる余地を残している。

 英雄の漂流プロセスを通じて寄り添うアテナ(ゼンデイヤ)。神が人物の運命に干渉していた原典をノーランは改変し、全編で神と人間を接近させており、その象徴的な存在である。彼女は主人公の主観だけに姿を現すが、その正体は、内部に戦士が息を潜めるフェイクギフト作戦=トロイの木馬が功を奏し、宮殿を炎上させた時に高貴な女性を斬った罪悪感が見せる幻だと終盤で明かされる。木馬の計略を見抜いたが誰にも信じてもらえなかったカサンドラだという仮説も成り立つだろう。オデュッセウスがそのことに気がつくと消えてしまうのは、映画『ジョーカー』(2019年)の孤独な主人公が見る恋人を想起させる。

 映画の結末近くでは、B.C.12世紀のギリシャを舞台に平行線のように走る叙事詩と考古学の謎がつなぎ合わされる。考古学では地中海各地を襲撃し、後期青銅器文明を滅亡させた一因とされる正体不明の「海の民」と呼ばれる集団は、実は叙事詩の英雄である自分だった、というものだ。この記述は原作の叙事詩の叙述にはもちろんない。ノーランは、考古学の研究に空いた謎を叙事詩の語り手自身で縫い合わせることで、「主人公だと思ったら加害者だった」というどんでん返しの仮説を示してみせるのだ(※1)。

 史実では文明崩壊の要因は「海の民」だけでなく、地震や気候変動、グローバル経済のバランスが複合的に積み重なったとされる。その後の古代ギリシャの再構築は400年の暗黒時代を経てポリスが勃興するアルカイック期で待たねばならない。だからといってこの映画が現代の暗黒化を警告する反戦映画を意味するかといえば、ただちにそうとも言いきれない。この点については後でふれる。

関連記事