『Michael/マイケル』に賛否の声が飛び交う背景を解説 “演劇”ではなく“音楽”で描いた本質

 “不世出”という言葉が誰よりも相応しいスーパースター中のスーパースター、「キング・オブ・ポップ」ことマイケル・ジャクソン。その突然の訃報から、もう約17年もの時が流れた。そんなマイケルの半生を描く伝記映画『Michael/マイケル』が公開されるや、早くも『オッペンハイマー』(2023年)の記録を抜き、「伝記映画興行収入ナンバーワン」の称号を獲得している。

 今後、さらに興行収入が伸びていくことが期待される本作『Michael/マイケル』だが、同時に賛否の声も飛び交っている状況だ。ここでは、マイケル・ジャクソンのファンでもある筆者が、さまざまな意見がぶつかり合う背景を解説しつつ、本作が何を成し遂げようとしたのかを語っていきたい。

 マイケルの青年期から大人になるまでを演じるのは、マイケルの実の甥で、ジャクソン・ファミリーの三男であるジャーメイン・ジャクソンの息子ジャファー・ジャクソン。作品が描くのは、マイケルが幼少時代から名実ともに世界のスーパースターになるまでと、彼が高圧的な父親ジョー(コールマン・ドミンゴ)の執拗な管理と暴力から逃れようとする姿だ。

 特徴的なのは、ジャファー・ジャクソンのパフォーマンスや人間ドラマの進行とともに、全編でふんだんに実際の楽曲が使用されていることだ。劇場の音響設備でマイケルの数々のヒットソングが次々に流れていく。マイケルの状況は常に進み続け過剰になっていくため、「スタート・サムシング」のフレーズが何度も象徴的に表れる。この贅沢さが、本作のヒットの第一要因であるだろう。あらためて映画館でマイケルの楽曲を聴くことで、その圧倒的なカリスマ性を再認識するのである。

 こうした楽曲使用を可能にしたのは、遺産管理団体「マイケル・ジャクソン・エステート」が、本作に全面協力しているからだ。これによってマイケル関連の楽曲で全編を埋め尽くすといった、音楽映画としてのアプローチも可能となった。一方でエステートの会計処理について、マイケルの子と団体とは一部対立関係にある。また、マイケルの妹ジャネット・ジャクソンの協力が得られなかったことで、ジャネットの存在も映画では描かれなかった。

 本作の内容に迫っていく前に整理しておきたいのは、情報が不足していることが、各人の作品の評価に大きな影響を与えているということだ。まず、最も誤解している層について。それは、マイケルが未成年に対し性的虐待をしていたという内容の告発や裁判があったことで、いまだに疑いの目を向け、本作がそこに言及していないことを問題視する者たちだ。しかし事実として、マイケルはその後刑事裁判での無罪を勝ち取っているのだ。

 もちろん当事者でなければ本当のことは分からないため、完全無罪とはいっても真実は分からないのは確かだ。とはいえ、訴えの内容や、後年発表された告発ドキュメンタリーの内容にも客観的事実と異なる証言が複数あり、潔白だったはずのマイケルが、警察やマスコミに不当な扱いを受けたと見る向きが多くなっている。この状況を知らずに、メディアが広めた過去の悪評を基に本作の内容を批判するというのは、さすがに悪質だろう。日本でも一部批評家が、その愚をおかしてしまったことは嘆かわしいことだ。

 だが、それでは批評家や評論家みんなが、一様にそうした無知から本作を批判していたのかというと、それも誤解だろう。本作はマイケルの熱心なファンであれば、だいたい知っている情報ばかりで構成されているのも確かなことである。本作の内容が、父親との確執を主軸に、有名エピソードを楽曲とともに足早に描いただけであり、いかにもエステートの協力によって骨抜きにされているのではないかという批判は、十分成り立つ。このように考えれば、高評価をしない批評家を全て同一視して無知だと決めつける意見もまた、理不尽な見方だといえる。

 一方で無知な批評家に対して、この映画がマイケルの人生の途中までを描く作品であるから裁判の描写がなくて当たり前なのだという主張もまた、勘違いのようである。プロデューサーが述べているように、本作は当初からマイケルの敷地にある「ネバーランド」が捜査されるシーンからスタートするなど、実際に裁判の描写が存在していたのだという。(※)

 しかし撮影が完了したタイミングに、なんとマイケルが告発者と和解をする際に、映画などで訴訟について描写をしたり言及をしないという条件に同意していた事実が判明したのだ。これによって、エステートの協力を得ていた本作は内容を大きく変えざるを得ず、公開を一年延期して追加撮影をすることとなった。つまり、アントワン・フークア監督をはじめ、本作のクリエイターたちもまた、訴訟を描くことが必要だと感じていたのだ。

 だから、すでに多大なエステートの協力を得ていた本作は、そもそもマイケルへの当時の疑惑そのものを描くことが法的に無理だったということになる。そう考えれば、本作が厳しい法的制約のなかで、結果としてこのようなバランスに落ち着いたことは必然的だといえるのである。だから、このバランスを批判するのであれば、それは監督や脚本の不備というよりは、法的チェックの粗さを含めた、そもそもの企画段階からの失敗に目を向けなければならなくなる。

 だが、本作はすでに続編の製作が動き出しているのだという。これが実現すれば、おそらくマイケルの後半生とともに、今度は本当に訴訟の問題を描くことになるはずだ。そのためにはエステートとの関係が見直されたり、法的な問題を解決するためにあらゆる努力が払われるのだろう。内容的には、セルゲイ・エイゼンシュテイン監督の『イワン雷帝』1部、2部がそうだったように、一人の歴史的な人物の光に対する影を描く後編が生まれることになるはずである。

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