『マーティ・シュプリーム』の本質は“走り続ける”こと “奔走”として表現された魂の旅路

 では、本作のストーリーは、露悪的な人物を描くものなのかといえば、それも違うはずだ。なぜなら驚くべきことに、後半で本作は、感動スポーツ映画に変貌するからである。マーティは、ケイとの不倫の末に、自分の力の無さに絶望すると、その心を埋めるように、彼が過去に敗北した日本人選手・エンドウへのリベンジを実現させようと、ついに自身のプライドを捨ててまで対決に向かおうとするのである。

 ちなみに、このエンドウを演じるのは日本の卓球選手・川口功人だ。エンドウのモデルとなったのは、実在の佐藤博治という選手で、彼は実際にラバーとスポンジを張った「サンドイッチ・ラケット」でマーティ・リーズマンを破り、快進撃を成し遂げている。

 本作のマーティは、日本に乗り込んでエンドウと再び対戦する際に、アメリカ側のスポンサーから八百長を持ちかけられる。マーティを噛ませ犬にして日本人を熱狂させ、自社製品を売ろうというのだ。そこで、がむしゃらに成功しようとしていたマーティが脳内で弾き出したのは、「NO」という答えだった。

 これを安易な道徳的な目覚めと捉えるのは誤りだろう。彼はおそらく、ここで成長を遂げたというわけではない。これまでの彼の行動全てが、じつは功利主義的なものに起因していたのではないということに気づいたということなのだ。金に汚いように見えるマーティだが、それはあくまで現状を打破するためのツールであったことが明らかになる。ここでスポンサー役を、俳優でなく実際の実業家であるケビン・オレアリーに演じさせているというのも、意図的な試みだ。

 マーティが奔走した理由は、“自分を納得させ、自己を確立するため”という、シンプルで純粋な衝動であった。サフディ監督は、マーティがエジプトでピラミッドの石を砕いて盗んでくるシーンについて、マーティや自分を含めたユダヤ人のなかでは、ピラミッド建設にユダヤ人がかかわっていたという、おそらくは真実ではない“伝説”が信じられていたと語っている。マーティがそんな行動に出たのも、自己承認のための一つの足掻きであったと解釈できるのである。(※)

 もちろん、そんな自己の確立のために、劇中で女性たちの人生が翻弄されてしまったり、犬が置き去りにされるなど、被害が拡大してしまったことについて、弁解の余地はないだろう。だからこそ、レイチェルのサバイバルとしての“ハスラー”技術で逆にやり込められる展開があったり、ケイの気分によって簡単に捨てられるといった境遇、そして結局マーティが命を賭すことになる犬奪還作戦などによって、脚本上軽減されているわけなのだが。

 この自己の確立といった気づきがあるおかげで、ラストシーンで意外にもマーティを祝福して、彼が涙を流す理由となるものが、社会的な地位などではなく、プライベートな存在だったということに、深く納得できる。「世界をつかめ」などという大仰な号令をぶち上げている一方で、皮肉にもこの映画は、最も身近な場所に答えを見出して幕が下りるのである。回り道を繰り返した果てに辿り着いた、その凡庸ともいえる平穏な光景は、目的のために“加速すること”に疲れきったわれわれの目に、一つの救済として映るはずだ。

 だが一方で、この映画の本質は、やはり“走り続ける”ことにこそあったのだろう。マーティが人生の意義を見出すためには、無謀ともいえる疾走があってこそだ。アレハンドロ・ゴンサレス・イニャリトゥ監督の『バードマン あるいは(無知がもたらす予期せぬ奇跡)』(2014年)がそうだったように、そしてヘルマン・ヘッセの文学作品『漂泊の魂(クヌルプ)』がそう記したように、“魂”は時間をかけて漂うことで、その居場所を見つけるものである。本作にとってそんな魂の旅路は、サフディ監督の作風である“奔走”として表現されたということなのだ。

参考
※ https://brutus.jp/post-487475/

■公開情報
『マーティ・シュプリーム 世界をつかめ』
TOHOシネマズ 日比谷ほかにて公開中
出演:ティモシー・シャラメ、グウィネス・パルトロウ、オデッサ・アザイオン、ケビン・オレアリー、タイラー・オコンマ(タイラー・ザ・クリエイター)
監督・脚本:ジョシュ・サフディ
配給:ハピネットファントム・スタジオ
2025年/アメリカ/英語/149分/原題:Marty Supreme/レイティング:G
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公式サイト:happinet-phantom.com/martysupreme/
公式X(旧Twitter):@martysupreme_jp

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