韓国版『セカコイ』はなぜ“明るく”描かれたのか? 日本版との比較で読み解く演出の妙

“感じさせる”日本版と“感情を見せる”韓国版

 物語の始まりも対照的だ。日本版の冒頭では、けたたましく鳴り響く車のクラクション、急ブレーキの音、さらに重なる「ピーピー」音が、真っ黒な画面の中で響き渡る。視覚情報を遮断し、「音」に集中させることで、観る者に「何かが起きた」ことを直感的に“感じさせ”、一気に作品世界へと引き込んでいく。

 対して韓国版は、キーボードのタイピング音から始まり、シン・シア演じる主人公ハン・ソユンが日記をつける場面から物語が動き出す。時計のカットによって、彼女が寝る前に日記を書いていることが示され、その後、翌朝へと場面は移行する。“感じさせる”のではなく、“見せる”ことで状況を理解させる演出だ。

 恋の始まりも、「静かな」日本版と、「ロマンティックさ」を前面に打ち出す韓国版では大きく異なる。日本版では、道枝駿佑演じる主人公・神谷透が、クラスメートのいじめを止めるため、福本莉子演じる日野真織に嘘の告白をする場面で、ふたりは出会う。

 一方、韓国版では、チュ・ヨンウ演じるキム・ジェウォンと、記憶障害を抱えるソユンが、バスの中で“運命的な出会い”を果たす。急ブレーキがかかった瞬間、スローモーションでジェウォンがソユンを抱きとめるかと思いきや、彼女の髪を掴んでしまうという印象的な出会いだ。告白の前に出会うふたりに対し、「ここが運命ですよ」と告げるかのように盛大でロマンティックなOSTが流れ、恋の始まりを強く印象づける。観る者の感情を掌の上に乗せ、自在に転がす演出は、まさに韓国エンタメの真骨頂だ。

 日本版が声の入らない劇伴、いわばBGMと、虫の音などの環境音によって透と真織の内面に静かにフォーカスしていくのに対し、本作ではRed VelvetのJoy、PLAVE、Ga-in&Jo Kwonといったアーティストたちが歌うOSTが、物語を力強く牽引し、感情を大きく揺さぶっていく。

 さらに、登場人物の描かれ方にも違いがある。日本版では、透の周囲に、小説家を目指す無職の父と、小説家の姉・早苗が配置され、それぞれが「逃げる」というテーマと向き合う。母を亡くした家族が、悲しみに向き合えずにいる姿が静かに描かれる。

 対して韓国版では、ジェウォンと父(チョ・ハンチョル)が、母を亡くした辛さを互いに打ち明け合う。感情を率直に表現する姿勢は、ジェウォンのソユンへの接し方にも通じている。日本版では真織から手をつなぐのに対し、韓国版ではジェウォンからだ。「僕」と自称する透に対し、「俺」と名乗るジェウォンは、熱情を持ち、思い切り走るという無謀さも厭わない。儚げな佇まいの透に対し、ジェウォンは男気を感じさせる存在として描かれている。

 「記憶を失くす」という消失に対し、「心や体が覚えている愛」を静かに積み重ねていく日本版は、エンディング曲・ヨルシカの「左右盲」と共に深い余韻を残した。一方、明るい中でデートを重ねていく韓国版は、楽しさや喜びが強調される分、光が濃くなり、闇もまた濃く、悲しみもより鮮烈に描かれていく。

 余韻で観る者の心にそっと委ねる日本版に対し、共にときめき、共に楽しみ、共に悲しもうという本作の姿勢には、観客を物語の内側へと引き込み、感情を解き放つカタルシスがある。その熱と情緒が交差する瞬間が韓国版の最たる魅力だろう。

 リメイクという手法において、最も幸福な形とは何だろうか。それはオリジナルをなぞることではなく、その作品が秘めていた「別の顔」「新たな感性」を引き出すことにある。そうした意味で本作は、日本版『セカコイ』が宿していた淡さや静謐さ、儚さといった“日本的感性”を単に継承するのではなく、それらを一度解体し、韓国作品ならではの感情表現を、熱情と情緒という二つの軸で再構築した一本と言えるだろう。

 両作品が放つ異なる愛の解像度を、同じ時代に味わえる――それ自体が、この物語が今もなお多くの人の心を掴み続ける理由なのかもしれない。

参照
※ https://www.koreatimes.co.kr/entertainment/films/20251222/even-if-this-love-disappears-from-the-world-tonight-shows-romance-building-daily-despite-memory-loss

■配信情報
Netflix映画『今夜、世界からこの恋が消えても』
独占配信中

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