『ボーイ・ミーツ・ガール』はレオス・カラックスの心象風景そのもの 引用の連続を紐解く

 『汚れた血』と共通しているのは、多くの人が寝静まった深夜の時間帯を、気怠く過ごすといった、夜行性の生活者の独特な時間感覚を描いているところだ。人のいない街で孤独を感じ、倦怠感とともに部屋の空気とともに過ごす時間……。そんな繊細な雰囲気が、本作にはみなぎっているのだ。「アレックス三部作」を支えることになる、撮影監督のジャン=イヴ・エスコフィエは、高感度フィルムを使用することによって、この独特な世界をモノクロームで表現している。

 カラックスと同い年の、アメリカの映画監督リチャード・リンクレイターもまた、初期作品『バッド・チューニング』(1993年)にて、こうした夜の独特な時間感覚を、テキサス州で表現している。そんなリンクレイターが、ジャン=リュック・ゴダールを題材にした『ヌーヴェルヴァーグ』(2026年7月日本公開)を手がけたのは、偶然ではないだろう。

 カラックスが、ゴダール同様に信奉しているのが、フランスを代表する文化人にして、マルチタレントな作家であったジャン・コクトーだ。本作では、彼の最初の映画作品『詩人の血』(1932年)における、不条理な夢のような世界と相似的な描写が散見される。とくに、ひょんなことで命が奪われる、理不尽としかいえない運命の酷薄さ、そして“彫像”のように見える女性のヴィジュアルは、ラストシーンで真っ白な服を着ているミレーユに非常に似ている。そして、その部分に限らず、ミレーユはしばしば劇中で大理石の彫像のように撮られているのである。

 「ボーイ・ミーツ・ガール」といった、恋愛を強く意識したタイトルをつけながらも、ヒロインを非常に硬質的に、捉え難いものとして描いているという点は興味深い。なぜなら、とくに『汚れた血』で映し出されるジュリエット・ビノシュの姿は、血が通った存在として、カラックスの彼女への恋愛感情が伝わってくる執拗さで撮られていたからだ。思うに、『ボーイ・ミーツ・ガール』を撮った後のカラックスは、虚構ではない人生の実感を、作品に塗り込めようとしたのではないか。そして、現実と虚構を一致させすぎたからこそカラックスは、『ポンヌフの恋人』で大きな精神的な傷を受けることになるのだが。

 この時代のフランスは、1968年の「五月革命」という、若かった世代の大きな物語が潰えた後、多くの若者が、まだ新たな目的を見出せていない状況にあった。そんな内閉的な時代の感性や倦怠感は、確かにアレックスに反映されている。ゴダールやコクトー、またはパーティーのシークエンスに感じられるアラン・レネなどからの引用は、目的を失った時代のなかにおいて、過去の映画的遺産を消費することでしか現在を語れなかったシネフィルの限界を物語っているのだ。

 それは、やはりカラックスと同い年の庵野秀明監督が、自身を「コピー世代」として、子供時代から観てきた作品の模倣を続けている世代であることを、やや自嘲気味に公言していることと無関係ではないだろう。そして、カラックスがそうした引用を明らかに武器にしつつも、同時にそこから抜け出そうともがいたのが、暴力的なまでのエネルギーを発散させた、『汚れた血』と『ポンヌフの恋人』だったのだ。

 そう考えれば、過去の遺産によって多くが構成された本作の雰囲気が大人っぽいものに感じられ、その後の作品がむしろ幼く見えてしまうことにも説明がつく。つまり、『汚れた血』と『ポンヌフの恋人』が本作よりも端正さを欠いて、情緒的に見えてしまうというのは、引用に塗れながらも、その上で映画に“人生”という真実を取り込み、より誠実に向き合おうとした彼自身の成長を、逆説的に示していたというわけだ。本作のラストで描かれる“死”とは、そんな幼年期の自分を殺す儀式だったのかもしれない。

 しかし、ガチガチにシネフィル的記憶で武装したことで、ある種のセクシーさが欠如した内容になっているとはいえ、本作が22歳の手によって撮られた作品であるという事実は、やはり驚かざるを得ない。冒頭の呻き声から始まり、ボウイの音楽に浸り、最後はコクトー的な“引用された死”へと至る……こうした、空虚ともいえる引用の連続は、1980年代当時のシネフィルが直面していたリアリティを、見事に表現しているといえよう。その意味において本作『ボーイ・ミーツ・ガール』は、自分という存在を婉曲的にさらけ出した、リアルな一作だったといえるだろう。

■公開情報
『ボーイ・ミーツ・ガール』4Kレストア版
ユーロスペースほかにて公開中
出演:ミレーユ・ペリエ、ドニ・ラヴァン
監督・脚本:レオス・カラックス
撮影:ジャン=イヴ・エスコフィエ
配給:ユーロスペース
1983年/フランス/モノクロ/104分/DCP
公式サイト:http://carax4k.com

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