『閃光のハサウェイ』Ξガンダムの素顔が明かされた意義 アナハイムの今後と反体制の象徴
1月30日、ついに『機動戦士ガンダム 閃光のハサウェイ キルケーの魔女』が公開された。圧倒的な映像美と、ヒロイックさよりもリアル志向なモビルスーツの挙動。そして、重厚なヒューマンドラマで、原作小説の魅力を十二分に引き出していた。そして、ラスト20分の怒涛の展開は、小説を履修済みの方でも驚きの連続だっただろう。特に、エンドロールでΞガンダムのフェイスマスクが剥がれ、への字のスリットが現れた瞬間、筆者はつい前のめりになってしまった。
今まで、Ξガンダムのへの字スリットが隠されていたことは、デザイン上非常に大きな意味を持っている。への字スリットは、“ガンダム”という機体を象徴する特徴の1つだ。だが、劇場版のΞガンダムでは、意図的にへの字スリットを隠していた。というのも、劇場版のΞガンダムは、“脱ガンダム”をテーマに、ガンダムらしさを消しつつ、小説版のデザインに寄せてリデザインされている。『閃光のハサウェイ メカニック&ワールド』(双葉社)によると、これは小説内におけるΞガンダムの“ガンダムもどき”という印象を、忠実に再現する意図があったからと語られていた。
一方で、劇場版ではΞガンダムのライバル機である、ペーネロペーが連邦製の正統なガンダムとして扱われている。そのため、劇場版のペーネロペーは、他の媒体以上に“ガンダムらしさ”を意識してデザインされているようだ。その証拠に、第1章までペーネロペーのへの字スリットは、Ξガンダムと比較した際により“ガンダムらしさ”を際立たせる特徴として機能していた。これにより第1章ではペーネロペーが連邦のアイコンであるガンダム。Ξガンダムはテロリストが持ち出した“ガンダムもどき”という対比構造を取っている。
“ガンダム”とハサウェイを重ねる演出
そんなΞガンダムが、第2章ラストにへの字スリットを晒した。これは、“ガンダムもどき”だった機体が、ガンダムであることを晒した演出と考えていいだろう。ガンダムもどきとして正体を隠していたΞガンダムが、ガンダムとしてスクリーンに現れた。これは、ラストでヘルメットのバイザーをあげ、ギギに素顔を見せたハサウェイの演出ともリンクしている。
実は、小説版でハサウェイとギギが再会したとき、ハサウェイはバイザーをあげていない。つまり、愛しいギギに会っても素顔を隠している=マフティーに徹していたと解釈していいだろう。それほど小説版のハサウェイは、マフティー役にのめり込んでいた。いや、役柄を自ら課すことで、欲望を自制できないハサウェイ・ノアという存在から逃避していたのかもしれない。そして、自分と再会してもマフティーであることをやめられないハサウェイの姿勢は、ギギとの間に溝を作ることになるのだ。
しかし、劇場版では全く異なる展開が用意されていた。レーン・エイムの駆る量産型νガンダムとの戦いで、かつてのトラウマが浮かび上がり、ハサウェイは錯乱しながら交戦。その後、すっかり憔悴した状態でギギと再会する。そして、小説と同様ギギと再会しても、ヘルメットを被ったままであることを指摘されるハサウェイ。だが、劇場版のハサウェイは驚くほど素直にバイザーをあげ、すっかりやつれた顔をギギの前に晒した。それは、反地球連邦組織のリーダーとしてではなく、欲望に振り回される、年相応の青年ハサウェイ・ノアとしてギギと向き合おうとした証拠ではないだろうか? そして、そんなマフティーに徹し切れない、等身大の弱さを見せてくれたハサウェイに、ギギは有無を言わさず熱烈な口づけをした。
その後、Ξガンダムのフェイスマスクも砕け、隠されていたへの字スリットが露になる。ハサウェイがマフティーの仮面を脱ぎ、ありのままの自分を晒したように。Ξの偽りの仮面が剥がれ、隠していた“ガンダム”としての顔を白日の元に晒した瞬間でもあるのだ。これは、第1章では“ガンダムもどき”でしかなかったΞガンダムが、『閃光のハサウェイ』という作品を象徴するガンダムとなった証でもあるのだろう。