『汚れた血』はなぜ“伝説”と言われる一作となったのか ラストシーンの意味を解き明かす

 『ポンヌフの恋人』(1991年)に続き、レオス・カラックス監督作『汚れた血』の4Kリマスター版の上映が始まった。1986年の公開当時、ヌーヴェル・ヴァーグの再来と言われた本作『汚れた血』は、“映画史上最も美しい疾走”を描いたという伝説とともに語り継がれている。映画ファンの支持は現在も健在で、「生涯のベストワン」として挙げる者も少なくないほどだ。

 なぜ、この一本は映画史上の伝説として語られる特別な映画になったのか。ここでは、その理由に迫りながら、難解といわれるラストシーンの意味を解き明かしていきたい。

※本記事では、映画『汚れた血』のラストまでの展開を明かしています

 一部では難解だとされる本作だが、全体のストーリー自体はシンプルだ。街角に立ちカードを捌いて日銭を稼いでいる青年・アレックス(ドニ・ラヴァン)が、製薬会社に保管されているワクチンを盗み出す計画に誘われ、亡き父の友人だったマルク(ミシェル・ピコリ)の住まいに暮らすことになる。そのマルクの年の離れた恋人アンナ(ジュリエット・ビノシュ)に、アレックスは強烈に惹かれていくのだ。

 レオス・カラックスは、同時代のジャン=ジャック・ベネックスやリュック・ベッソンとともに、フランス映画の「恐るべき子供たち(Les Enfants Terribles)」と呼ばれていた。これは、詩人、小説家、画家、映画監督などマルチな才能を発揮したフランスの芸術家ジャン・コクトーの著作からとった言葉だ。本作の一場面にも、コクトーのイメージが表れていることから、カラックス自身もまた彼から“霊感”を授かろうとしていることが分かる。

 ジャン=ジャック・ベネックスやリュック・ベッソンと共通していたのが、「シネマ・デュ・ルック (Cinéma du look)」などと呼ばれた“人工的”な画面づくりだ。本作でカラックスはセットを用い、室内や路地をグレーに塗りたくっている。それはおそらく、ジャン・ギャバン主演の犯罪映画などに代表される、モノクローム時代の「フレンチ・ノワール」の雰囲気を召喚するためだろう。特徴的なのは、そんな灰色の美術に、赤、黄、青という鮮烈な原色をちりばめ、衣装にもそれを徹底させたという特異な演出だ。

 クラシック志向でありながら、その伝統を同時にアヴァンギャルドな姿勢で壊そうとする……それが、あらゆる意味において本作全体にみられる姿勢だといえる。象徴的なのが、有名な「モダン・ラヴ」シーンである。感情が薄れゆく現代における愛の不安を歌ったデヴィッド・ボウイの楽曲「Modern Love」とともに、振り向いてくれないアンナへの感情を爆発させるように、夜の路地を走り抜けていくアレックス。

 このシーンは、見ようによっては軽薄なミュージックビデオのような演出だといえよう。しかし同時に、物語から切り離されたイメージシーンであることが、むしろ純粋な映像としての“強度”……つまり映画としての魅力を獲得しているともいえる。そして、この映像そのものが、アレックスが劇中で語り、当時カラックス自身も信じていたであろう「永遠に疾走する愛」を具現化した姿だったのだ。

 このシーンで思い出すのは、フランソワ・トリュフォー監督が『大人は判ってくれない』(1959年)のラストシーンで描いた、走り続けるアントワーヌ・ドワネル少年が行く手を海に阻まれる姿である。若き日の反抗心が、子どもとしての限界と対峙させられる瞬間……そこでこそ、逆説的に純粋な精神をより克明に描けるのではないか。このように、当時の映画運動「ヌーヴェル・ヴァーグ」の象徴的シーンを想起させるからこそ、本作は「ヌーヴェル・ヴァーグの再来」といわれるのだ。

 トリュフォーがジャン=ピエール・レオにアントワーヌ・ドワネルというキャラクターを演じさせていたように、「アレックス三部作」は、若き日のレオス・カラックスが、背格好が近いドニ・ラヴァンを自身の身代わりにして、ある意味でポートレイトとして感情を映し出した作品だといえる。彼が情熱のまま躍動する姿は、そのまま出演俳優ジュリエット・ビノシュへの狂おしいまでの愛情だと理解できる。

関連記事