ライアン・ジョンソンが生み出した“反逆的探偵映画” 『ナイブズ・アウト』シリーズのテーマ
ライアン・ジョンソン監督、ダニエル・クレイグ主演の映画「名探偵ブノワ・ブラン」シリーズ。アガサ・クリスティー原作形式といえる、豪華キャストを集めた殺人ミステリーである。その第3作となる、『ナイブズ・アウト:ウェイク・アップ・デッドマン』が、この度リリースされた。
前2作において、著名なミステリー作家、ハイテク企業創業者にまつわる事件に挑んできたブノワ・ブランが今回追う謎は、田舎町にある古いカトリック教会を舞台にした殺人事件。今回も、難解なトリックと大きな力がブランの前に立ちはだかる。ここではそんな、一部で「シリーズ最高傑作」とも言われる本作『ナイブズ・アウト:ウェイク・アップ・デッドマン』が、何を描いているのかについて考えていきたい。
殺されるのは、ジェファーソン・ウィックス(ジョシュ・ブローリン)なる、長くニューヨーク州の田舎で信徒を導いている司祭だ。この人物、信者を思い通りにコントロールしようとするとんでもない男だったということが、この教会に派遣された若い司祭、ジャド・デュプレンティシー(ジョシュ・オコナー)によって語られる。
司祭は信徒の罪や過ちを聞き、神の赦しと和解を得ようとする儀式「告解」が日々の務めの一つだ。これは司祭同士でもおこなうらしく、劇中で若い司祭ジャドが、ウィックスの告解を聞く場面がある。このディテールに、まさにシリーズならではの面白さがあるのだ。
ウィックスは、自身が何度も自慰行為をしてしまうという罪をジャドに語る。しかも、どこで知ったのか、日本の「猫カフェ」を想像して、その猫たちがセクシーな女性たちだったらと妄想したというのだ。そして手近に適当な紙がなかったから、手元にあったキリスト教雑誌を使用したとも語る。さすが卓越したユーモア感覚を持つライアン・ジョンソンならではの脚本といえるエピソードだが、これが、若くリベラルな思想を持つジャド司祭に対する、一種のハラスメントであり牽制としても機能しているというのが怖いところだ。
司祭に対してわざと告解の場で自慰行為の詳細を語るという行為自体が、すでに精神的なハラスメントそのものだといえる。告解は本来、神聖な場であるが、ウィックスはそれを、自分の権威を誇示して相手を不快にさせ、支配するための道具に変えている。権威や権力を持つ者が、相手の精神的な領域に土足で踏み込み、自分の欲望を押し付け、“信仰の名の下に”正当化して相手を黙らせ、支配していく。これは、まさに宗教的権威の腐敗と、性的・精神的な虐待の構造を、たった一つの下品なエピソードで凝縮して見せている部分だ。
しかもウィックスのやったことは、それだけでは済まされない。教会の信徒である、妻に逃げられた医師ナット(ジェレミー・レナー)の不満を煽り、「女性全体が悪い」、「現代のフェミニズムが家庭を壊す」などと問題の本質をすり替えて、個人的な責任や喪失を憎悪に変換させるのである。
また、SF作家のリー(アンドリュー・スコット)の不安と敵愾心を増大させることで、「世界が自分を攻撃している」とする被害妄想に襲わせもする。信者たちに向けてウィックスは、自分たちが「世俗社会から迫害されている」と強く語り、“戦士”として神のために戦うことを求めている。この陰謀論的で暴力的な性質は、カトリックというより「キリスト教福音派」のそれに近い。ここでライアン・ジョンソンは、カトリックそのものを批判しているというより、保守的な社会を望む宗教右派の近年の問題を、複合的に描いているということが理解できるのだ。