『べらぼう』長谷川平蔵=中村隼人になるほどのハマりぶり “鬼”になる前の未完成の魅力

 「鬼平」と聞いてどんな人物を思い浮かべるだろうか。理知的で、人情に厚く、悪には容赦しない。池波正太郎の『鬼平犯科帳』で描かれる主人公・長谷川平蔵を数々の名優が演じてきた。その姿には、静かな威厳と、どこか達観した優しさがあった。

 しかし、NHK大河ドラマ『べらぼう〜蔦重栄華乃夢噺〜』の平蔵は、少し違う。ここで描かれるのは、青年時代は風来坊で「本所の銕」と呼ばれ、遊里で放蕩の限りを尽くしたという逸話も持つ、のちに火付盗賊改方を務める前の姿だ。武士の家に生まれながらも、世の仕組みに翻弄され、迷い、学び、そして変わっていく。まだ理想には届かないが、確かに成長している。その過程を中村隼人が、驚くほど自然に生きている。

 『べらぼう』の平蔵が愛されている理由のひとつは、彼が「ただのカッコいい男」ではないことだ。どこか抜けていて、ちょっとかわいい。物語初期の“カモ平”時代、蔦屋重三郎(横浜流星)に手玉に取られ、調子に乗って失敗する姿には妙な愛嬌がある。プライドをくすぐられてムキになったり、格好をつけようとして裏目に出たり。

 中村はその“おちゃめ”を演じるときも“軽く”はならない。笑いを取りにいくのではなく、人間らしさの延長としてのおかしみを見せる。強さと優しさ、そのあいだに茶目っ気をのぞかせる。このバランス感覚が、中村隼人の魅力そのものだ。

 第38回では、物語が大きく動いた。松平定信(井上祐貴)が長谷川平蔵を呼び出し、人足寄場をつくるように命じる。罪人ではない無宿人や軽犯罪者を、労働と職業訓練で更生させるという新しい発想だった。後の“鬼平”が大切にする「人を裁く前に、まず見つめる」姿勢の原型がここに見える。

 さらに、出版統制の激化をめぐって、蔦重と定信の駆け引きが進む中、平蔵はそのどちらにも肩入れせず、冷静に“秩序の理”を考えようとする。

 まだ鬼には遠い。だが、江戸の打ちこわしで蔦重が刺されそうになる瞬間、平蔵が放った矢が丈右衛門だった男(矢野聖人)の胸を射抜いた場面が象徴するように、鬼になる覚悟を持つ男の輪郭は、確かに見え始めている。

 改めて中村隼人の平蔵の立ち居振る舞いに注目してみると、姿勢が美しいことに気づく。立つ、歩く、座る、そのすべての動きに無駄がなく、空気を切り取るような静けさがある。

 それでいて、完璧には整っていない。わずかに重心が揺れたり、目線が泳いだり。中村は「ドラマが進んでからの落差をつけたいと考えて、監督やスタッフにアドバイスをいただきながら、ちょっとコミカルに、余白や隙がある男として演じている」と語っているが、言葉通り、そこに“若さ”と“迷い”が生まれている。(※)

 歌舞伎仕込みの所作の正確さと、ドラマならではの自然な崩し。その両方が正確に使い分けられていることがわかる。

 一方で、これまで多くの名優が「鬼平」を演じてきた。初代松本白鸚を鬼平にと指名したのは、原作者の池波正太郎で、映画『敵は本能寺にあり』で一緒に仕事をした白鸚をイメージして『鬼平犯科帳』を執筆していた。二代目中村吉右衛門は、池波正太郎のたっての希望で四代目鬼平となり、長谷川平蔵が初めて火付盗賊改に就いたのが42歳であり、ほぼ同年齢となったことも引き受けた理由の一つだった。彼らが見せたのは、“完成された”人物像だった。正義と情を兼ね備えた、理想のリーダー像。

 それに比べて、『べらぼう』の中村隼人は、“途中”の人間を演じている。威厳ではなく、親しみ。強さよりも、柔らかさ。中村隼人がいま築いているのは、そんな“現代的なヒーロー像”だ。伝統的な鬼平の重みはありつつ、それでも新しい風を吹かせている。視聴者からは『べらぼう』スピンオフとしての『鬼平犯科帳』を観たい、という声も続出している。

 「鬼平」とは、人を守るために鬼になった男だ。だが、『べらぼう』で中村が見せているのは、鬼になる前の、まだ人間の温かさを持った平蔵である。

 鬼平になる前のこの男こそ人間らしく、だからこそ魅力的なのだ。中村が体現してみせた、孤独でありながら誇り高い、未完成の平蔵。彼がこの先、どんな“鬼”へと変貌していくのか。その過程こそが見どころのひとつである。

参照
※ https://www.steranet.jp/articles/-/4034

■放送情報
大河ドラマ『べらぼう~蔦重栄華乃夢噺~』
NHK総合にて、毎週日曜20:00~放送/翌週土曜13:05~再放送
NHK BSにて、毎週日曜18:00~放送
NHK BSP4Kにて、毎週日曜12:15~放送/毎週日曜18:00~再放送
出演:横浜流星、小芝風花、渡辺謙、染谷将太、宮沢氷魚、片岡愛之助
語り:綾瀬はるか
脚本:森下佳子
音楽:ジョン・グラム
制作統括:藤並英樹
プロデューサー:石村将太、松田恭典
演出:大原拓、深川貴志
写真提供=NHK

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