黒崎煌代が“何もしない”芝居でさらなる高みへ “本物”の団塚唯我監督から得たもの

 映画『見はらし世代』で初の映画単独主演を務め、カンヌ国際映画祭の地を踏んだ俳優・黒崎煌代。デビューから着実にキャリアを重ねる彼が、同世代の団塚唯我監督と共に挑んだのは、自らのアプローチを封印する「何もしない」という新たな芝居だった。変わりゆく渋谷の街を背景に、普遍的な家族の物語を演じた彼の今、そして未来への展望を聞いた。

『見はらし世代』に刻まれた“渋谷”の一瞬

――まず、カンヌ国際映画祭へのご参加、おめでとうございます。映画人なら誰もが夢見る舞台だったと思いますが、少し時間が経った今、振り返っていかがでしたか?

黒崎煌代(以下、黒崎):大変なこともありましたが、やはり映画を観る人、映画に関わる人からすれば、夢のある、ある意味「聖地」の一つだと思います。団塚監督の初長編監督作、初主演、そしてプロデューサーなど、たくさんの「初」で乗り込めたのは、僕たち自身もエネルギッシュでした。僕たちが行くことによってその場がふわっとする感じがあったりして、ありがたい経験でした。

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――デビュー当時から取材させていただいていますが、黒崎さん自身、「映画の主演をやりたい」など様々な思いを伺ってきました。ご自身で、ここまで早くカンヌの地へ行くという実感はありましたか?

黒崎:いえ、全く思っていませんでしたし、本当にとにかく「ありがたい」という一言に尽きます。今回は監督週間での参加だったので、何よりも団塚監督が一番すごいです。そこに僕も主演という形で参加させていただいて、本当に感謝しています。

――この作品のベースには、団塚監督との「友達」という関係性があったと伺いました。黒崎さんが役者の仕事を始めてから、これほど監督や演出家の方と年が近いのは、ほぼ初めての経験だったのではないでしょうか。これまでの作品とは違う、その距離感だからこそ生まれた部分はありましたか?

黒崎:スタッフ全体の年齢も若かったので、団塚監督がスタッフ全員とコミュニケーションしやすい雰囲気作りが上手いなと感じていました。僕とは年が近いですが、ベテランの方も団塚監督に気軽に話しかけていて、活発に議論が生まれているような現場でした。

――決して予算が潤沢な作品ではなかったと思いますが、画面に刻まれているものはとてもリッチで。実際に完成された作品を観たときにどう感じられましたか?

黒崎:監督も言っていたのですが、「予算がないからできなかった」という裏事情が見えないように、安っぽい映画にはしたくないと。それはなぜかというと、これが「東京の映画」「渋谷の映画」だからです。そこがダサかったら意味がないし、渋谷のエネルギーをしっかり映せば、キャリアの浅い僕たちが撮っても、ある意味、渋谷という街の風景を信じて撮れば大丈夫だろう、という話をしながら撮影しました。

――宮下公園からMIYASHITA PARKへの変化など、移り変わる現代の渋谷が切り取られていること自体が、この映画にものすごい価値を与えていると感じます。黒崎さんご自身は、「宮下公園」には世代的にもあまり触れていないかと思いますが、そのあたりはいかがでしたか?

黒崎:僕は2020年に上京してきたので、僕が来た頃にはもうMIYASHITA PARKでした。なので、以前の宮下公園は知らないんです。でも、監督はずっと東京に住んでいるので、その移り変わりを見てきたそうです。正直、僕からするとMIYASHITA PARKがオリジナルで、今も人で溢れかえっているという印象なので、この作品に入るにあたって少し調べました。

――黒崎さんご自身にとって、「渋谷」という街は?

黒崎:この作品を撮る前は、正直、あまり好きな街ではありませんでした。「若者の『やってやるぞ』というパワーがありすぎて怖い」というか、面倒くさいという気持ちがありました。文化的なスマートさとも少し違う、独特の雰囲気に少し近寄りがたさがありました。でも、それは僕がまだ渋谷を知らなかったからで、この映画に関わるようになってから渋谷へ足を運び、いろいろ歩いてみた結果、今では好きになりました。

――この映画が切り取った渋谷の風景も、この映画の中にしか刻まれていない、一瞬の時間なのだなと、作品自体のテーマも相まって、その尊さをものすごく感じました。

黒崎:実は、最後の歩道橋からFREEMAN CAFEを見ているシーンは、本来は違う場所で撮るはずだったんです。でも工事で撮れなくなって急遽あの場所で撮ることになって。今ではその場所ももうなくなっています。

――もう二度と誰も見ることができない、その時間が映画の中に刻まれているわけですね。本作は「時間」が大きなテーマになっています。劇中でも10年が経過しますが、黒崎さんが演じた主人公・蓮の時間の流れを表現するために、どのようなアプローチをされましたか?

黒崎:これは半分、監督の自伝的要素のような部分もあるので、僕も実はあまり深くは聞いていないんです。ただ、監督とよく喋るということをしました。監督と話しているうちにポロッと出てくる過去の話や、今の監督から想像できる昔の姿だとか、そういう会話を通して、蓮の人生を考えていきました。

――黒崎さんご自身の家族との距離感とは、蓮の状況は少し違う感じですか?

黒崎:そうですね、真逆と言ってもいいくらい、本当に仲がいい家族です。ですから、今回は自分の過去は全く使わないようなアプローチをしました。

――以前、『ギルバート・グレイプ』についてお話しされていましたが(『ギルバート・グレイプ』“束縛”の意味を考える)、あの作品も家族だからこそのしがらみや束縛が描かれています。『見はらし世代』とは似て非なるものですが、少しシンクロする部分も感じました。黒崎さんが映画を観る上での関心事として、「家族」は一つのキーワードだったりしますか?

黒崎:なるほど。『ギルバート・グレイプ』もそうですが、家族との距離感というのは、僕の中ですごく常に考えていることです。僕自身の家族は仲が良いですが、その「家族の距離感の変化」というものに、僕は惹かれるのかもしれないですね。

――それが普遍的なテーマでもあり、観る人それぞれが自分の状況と重ね合わせる部分でもありますよね。本作でもその点はポイントのひとつでしょうか?

黒崎:そうですね。少しネタバレになってしまうので詳細は言えないのですが、何気ないセリフの端々に、リアルな家族の距離感が本作では表現されていると感じます。

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