木村文乃×ラウールが見せてくれた大きな夢 『愛の、がっこう。』は“人間を救う”作品だった
人はなぜ、「禁断の愛」を描いた作品に惹かれるのか。主人公が「許されない恋」のその先へと突き進んだ果てに、真の自由が描かれるからではないだろうか。親の言いなりの人生の窮屈さに耐えかねた主人公・小川愛実(木村文乃)は勢いよく大海に飛び込むようにカヲル/鷹森大雅(ラウール)を愛した。その先に、彼女の本当の意味での自立があった。「大きすぎて背負いきれない夢」が「愛」なら、『愛の、がっこう。』(フジテレビ系)はまさにそんな、それぞれの「大きすぎて背負いきれない夢」を描いていた。
『昼顔』(フジテレビ系)、『お母さん、娘をやめていいですか?』(NHK総合)の井上由美子が脚本を手掛け、『昼顔』、『あなたがしてくれなくても』(フジテレビ系)の演出・西谷弘がタッグを組んだ本作は、無性に愛さずにはいられない作品になった。
生真面目な愛実のガムシャラな恋と、ホストとして「嘘の世界」を踊るように生きつつ、言葉の端々に繊細さと優しさを滲ませるカヲルの人生を応援していたら、気づいたら恋敵である婚約者・川原洋二(中島歩)や愛実の父・誠治(酒向芳)まで愛おしくなっていた。川原の、自身を鼓舞するための「頑張れ頑張れ川原」を、偶然居合わせた外国人たちに連呼され、つかの間の一体感を味わっているという、彼らしいラストシーン。さらには本作そのものが、誠治と愛実の母・早苗(筒井真理子)の夫婦関係の再構築を予感させる、鉢植えに芽生えた新芽のショットで終わることといい、すべての登場人物に対する愛に満ちた最終話だった。
人は度々間違える。それは「恋路を阻む人々」のみならず、別れを切り出されストーカー化し、死のうとして海に飛び込んだという「重すぎる」恋愛の過去を持つ愛実自身もそうだ。「正しい」とされる道から逸脱することに寛容な本作の佇まいは、恋愛ドラマを越えて、不器用に生きざるを得ない人間への救いのようなドラマだと思った。
本作は、石川啄木の『一握の砂』の一遍「大という字を百あまり砂に書き 死ぬことをやめて帰り来れり」で始まり、終わるドラマである。ある意味、第1話冒頭で死のうとして海に飛び込んだ愛実が、最終話終盤でカヲルとともに「愛」という字を「百あまり」砂に書き、生きようとする話とも言える。
第1話で教師である彼女は生徒に対し前述した短歌の「大」の意味について「大きなことをやりたいとか、偉大な人物になりたいって願いだと思う」と説明するが、最終話で塾の講師となった彼女は同じ一遍を紹介し、今度は「大」の意味を「大きすぎて背負いきれない夢」だと言っている。そもそも、第1話冒頭で、なぜ彼女は死のうとしていたのか。それは失恋の悲しみというだけでなく、自分の選んだ道を行くつもりが悉く失敗したことへの失望だったのではないだろうか。
就職も恋愛も、それまで親の望む通りに進路を選択することしかできなかった彼女が、初めて自分で選んだ人生の道だったのに関わらず、恋人と別れ、さらにはそれが遠因で出版社の仕事を退職せざるを得なくなった。失望した彼女は、抵抗することをやめ、父が薦めるまま教師になり、結婚相手に川原を選び、第1話冒頭の彼女曰く「みっともなく生きてい」た。本作は恋愛の話であると同時に、そんな彼女の自立の話だ。彼女が、「普通の人ならとっくに開けている扉をやっとの思いでこじあけ」て家から脱出し、自分で選んだ心から愛する恋人と、仕事と住む場所を見つけて、本当の意味で自立するまでが描かれている。