『べらぼう』井上祐貴演じる松平定信は“悪役”なのか? “正しい”からこそ生まれる対立
NHK大河ドラマ『べらぼう〜蔦重栄華乃夢噺〜』において、松平定信(井上祐貴)がついに動き出した。一橋治済(生田斗真)に引き上げられる形で政界に復帰し、「黒ごまむすびの会」なる反田沼派閥を結成。田沼意次(渡辺謙)を追い落とそうと画策を始めたのである。そんな劇中での“悪役”な動きに対して、視聴者からは「理屈っぽすぎて無理」というような声も聞こえている。
だが、である。この男を完全に憎めない自分がいる。いや、むしろ「言ってることは分かる」と頷いてしまう瞬間すらある。一体なぜなのか。
思えば田沼意次の時代は、確かに華やかだった。商業は発展し、蔦重(横浜流星)のような才能も開花した。しかし同時に、第27回で描かれた天明の大飢饉、地方から江戸に流れ込む農民たちの姿、第28話での田沼意知(宮沢氷魚)の殿中刃傷事件と、その葬列に石を投げる民衆の怒り。これらは田沼政治の限界を如実に示していた。
そこに登場したのが松平定信である。第30回での初登場シーンから、この男の「面倒くささ」は全開だった。早口でまくし立て、理屈を並べ、相手の反応を試すような物言い。井上祐貴自身が「ひと言で言うと面倒くさい人物」と表現した通りの人物像が、見事に体現されていた。(※1)
ここで井上祐貴の演技が光る。早口という設定は史実にはない、ドラマオリジナルだが、これが絶妙に機能している。「定信のオタク気質な部分を追究した」という制作陣の狙い通り、理論武装した頭でっかちな人物像が浮かび上がる。(※2)しかし同時に、井上が語る「心の中で本当は何を考えているのか、それを目や表情で伝えられるように」という演技プランも確実に伝わってくる。(※3)
何より重要なのは、定信が本気で「世の中を良くしたい」と信じていることだ。むしろ自分の信じる正義を貫いているだけなのである。「嫌いにならないで」と笑う井上の言葉が、この役の本質を物語っている。(※1)「黒ごまむすびの会」を結成し、反田沼派閥を形成する定信の姿は確かに陰湿に見えるが、彼なりの大義があるのだ。そして、だからこそ厄介なのである。
第30話で蔦重は、狂歌絵本の出版に向けて動き出す。読者参加型の入銀狂歌絵本という新しい試みだ。これは田沼時代だからこそ可能な、自由な発想の産物である。しかし、この自由が永遠に続くわけではないことを、視聴者は知っている。定信の登場は、その終わりの始まりを告げているのだ。
定信の改革を見ていると、現代の政治議論を思い出さずにはいられない。緊縮財政vs積極財政、規制強化vs規制緩和……これらの議論は江戸時代から続いているのだ。
後に寛政の改革について「白河の清きに魚も住みかねて もとの濁りの田沼恋しき」という狂歌が詠まれる。これは定信の改革があまりにも厳しすぎたことを皮肉っている。しかし、だからといって田沼時代の放漫さがすべて正しかったわけでもない。このバランスの難しさこそが、政治の永遠の課題なのである。
思い返せば、田沼意次も松平定信も、それぞれの時代の要請に応えようとした政治家だった。田沼は経済成長を重視し、定信は秩序回復を優先した。どちらが正しいという単純な話ではない。蔦重のような文化人にとって定信は天敵だが、定信の改革がなければ幕府は早期に崩壊していたかもしれないのだ。
第30話までを観て思うのは、『べらぼう』が描こうとしているのは、単純な勧善懲悪ではないということだ。田沼も定信も、それぞれの信じる道を進んでいる。その結果として、文化が生まれ、また抑圧され、そしてまた生まれる。この繰り返しの中で、蔦重のような人物が必死に生き、作品を残していく。
だからこそ『べらぼう』は面白い。善悪二元論では語れない、複雑で、面倒くさくて、でも目が離せない人間ドラマがそこにある。定信を完全に嫌いになれない自分に気づいた時、このドラマの深さが見えてくる。
今後、定信がどのような改革を断行し、蔦重たちがどう立ち向かうのか。その対立と共存の物語が、これから本格的に始まる。
参照
※1. https://www.nhk.jp/p/berabou/ts/42QY57MX24/blog/bl/pG3k57WNaG/bp/pnLQAEJ7ka/
※2. https://www.minyu-net.com/news/detail/2025081008365839549
※3. https://www.steranet.jp/articles/88235
■放送情報
大河ドラマ『べらぼう~蔦重栄華乃夢噺~』
NHK総合にて、毎週日曜20:00~放送/翌週土曜13:05~再放送
NHK BSにて、毎週日曜18:00~放送
NHK BSP4Kにて、毎週日曜12:15~放送/毎週日曜18:00~再放送
出演:横浜流星、小芝風花、渡辺謙、染谷将太、宮沢氷魚、片岡愛之助
語り:綾瀬はるか
脚本:森下佳子
音楽:ジョン・グラム
制作統括:藤並英樹
プロデューサー:石村将太、松田恭典
演出:大原拓、深川貴志
写真提供=NHK