『CITY THE ANIMATION』はなぜ“平面的”に描かれるのか 撮影処理をめぐる京アニの新機軸
むき出しの街——『CITY THE ANIMATION』と京都アニメーション的手法をめぐって
『CITY THE ANIMATION』(以下、CITY)はその名の通り「街」そのものが、あるいはその街の誰もが主人公である作品だ。本作の舞台となる街では、あたかもピタゴラスイッチのように絶えず様々な事件が脈絡なく、けれど連鎖的に巻き起こっている。一方でサッカー部がツチノコを発見し、他方で南雲・わこ・いい人のヘンテコな3人組が塔からの脱出を試みる(塔の最上階では漫画家と編集がもてなしを受けている)。あるいはにーくらは相変わらず猫を追いかけていて、その猫が屋根に乗った車にはうみ・そらたちが乗っている。
いくつもの画面にスプリットされた映像の中でそれぞれで起こっていることがらは、お互いに緩やかなつながりを保ちながら、最終的には塔のふもとで一つに統合される。『CITY』第5話において表現されたことは、その統合がきわめて平面的なものとして成立していることだったのではないだろうか。全員が一つの世界のなかに収まったとき、我々が目にした映像が消失点を設けない俯瞰図だったことを思い出したい。そこではあらゆるキャラクターたちが遠近法の影響を受けずに並置されながらも、そこかしこでさまざまなことが起こっていた(よく観ると画面の中央でにーくらと南雲がぶつかっていて、そこから次のシーンが始まっている)。このシーンにおいて立ち現れているのは、「街」そのものを全てフラットに描くこと、けれどもそれは均等に薄くという意味ではなく、すべてを濃密に描くのだという気概だ。
第5話の俯瞰図で見られるような平面性以外に、もう一つのフラットさが『CITY』全体に張り巡らされている。すなわち本作では空や山、またビルや草木といった背景にはグラデーションがなく、きわめてのっぺりとした描かれ方になることで映像が奥行きを失い、フラットなものとなる点である。これは、本作を通して撮影処理がほとんど用いられないことともつながっている。多くのアニメではキャラクターがフォーカスされるとき、カメラの機能を模倣して背景や手前に置かれる物にはピントを合わせなかったりすることがある。しかし『CITY』は、おそらく意図的にこれを行わないようにしている。背景とキャラクターはほとんど同じ太さの線で描かれ、手前に置かれる電柱には(ピント調整の代わりに)輪郭線に斜線が描かれることでぼやけていることが表現される。服のしわなどはあえて最小限にとどめることで陰影を減らし、キャラクターの影はしばしば線を重ねることで表現されている。あるいは第6話ではわこと編集が漫画の連載について話す場面で、空から海へと視点が下がっていく際にレンズフレアのような演出があるが、これは原色を用いた手描きの雰囲気をまとっていた。ここで行われていることは、可能な限り画面上にあるものを「描く」ことによって表現する試みだ。すなわち本作はどこまでも「描かれているもの」そのもの……むき出しの「街」を見せるために、カメラによる効果を排除してフラットな映像を作り出そうとしているのだと言えよう。この二つのフラットさによって『CITY』の映像は構成されている(※1)。