『魔法少女山田』を徹底考察 山田正一郎がかけた“魔法”という名の“永遠に消えない呪い”
恐ろしいのは、監督の三田が貝塚に正体を偽ったままで取材をおこなっていたことだ。それが分かるのは、貝塚が取材者に対して、三田の協力を得たことを報告している箇所である。さらに彼女は、取材のなかで貝塚に「ドキュメンタリー映画にしていいですか」と質問し、貝塚が「お任せします」と答えている音声を作品内で使用し、貝塚が送ってくれた映像に誤って映り込んだ彼の顔まで、作中で晒している。
つまり彼女は、亡くなった山田を再度ネタにして、「唄うと死ぬ歌」という不謹慎な題材で第2章を手がけたばかりか、貝塚に裏で情報提供をしていたのだ。たくみに誘導し、調査にのめり込ませたり、“身バレ”を誘発して、のちに訴えられてもいいように“言質(げんち)”すら取っていた。そんな三田の人間性を知った上で、もう一度『魔法少女おじさん』を見ると、三田は山田のことも、作品を盛り上げるためにコントロールしていたことが理解できてくる。
ここで思い至るのは、ドキュメンタリー映画に絶えず付いてまわる“倫理性”の問題である。実際に生きている人間や、その行動を映し出すのだから、それをどう撮るのか、まとめるのか、そして自身の主張のために真実を曲げたり過度な脚色をしてはならないという点で、作り手には責任が発生する。しかし三田は自身の利益のために、その全部から逸脱したのだ。
だが、この作品は“三田が黒幕”という話では終わらない。それでは、いったい誰が最も恐ろしい存在だったのか。その答えは、『魔法少女おじさん〜第2章〜』の後に、本作品が提示する、山田が最後に事務員として働いた幼稚園の防犯カメラ映像で明らかになる。映像は不鮮明ではあるものの、山田は幼稚園の子どもたちの前で、合唱中に首を吊るという、凶悪な行動に及んでいたことが理解できる。
心理学者ジークムント・フロイトは、精神的に強い衝撃を受けると、長期間にわたりその影響に支配するという、目に見えない「心的外傷(トラウマ)」というものが存在するという説を提唱した。その考えによるならば、この幼稚園で園児のときに山田の最期を目撃し、成長してからも「歌」や「魔法少女」への不安にとらわれ続けた貝塚や日下部は、常軌を逸しているわけではないだろう。その衝撃の大きさからいえば、むしろ日常生活に支障をきたすのは、無理からぬことだったといえる。
さて、なぜ山田は子どもたちを長年の間苦しめるような行動に出てしまったのか。彼は、仕事を追われ、妻子に逃げられ、再就職にも失敗するという不幸を味わっている。そう思えば、正常な行動が取れなくなったことに、同情的な見方も生まれるかもしれない。彼もまた、現代社会の犠牲者であり、三田監督にいいようにコントロールされた悲劇の人なのだと。
だが、本当にそうなのだろうか。思えば彼は、『魔法少女おじさん』に出演する以前から、不穏なものがあった。まず、不登校の子どもたちのためだったり、離れた娘が見てくれるかもしれないという理由があるにせよ、わざわざ「魔法少女」に扮装し、役を演じる必要があったのかという疑問が湧く。
とくに学童保育で山田が子どもたちと遊ぶ姿は、際どいミニスカート姿が目立ち、目のやり場に困る。最近も現実の社会で教員による大規模な性被害事件があって、日本中の保護者が不安をおぼえたように、彼のコスプレの裏には何か“不適切な目的”があるのではないかと、警戒されても仕方がないのではないか。仮にそういった目的がないにせよ、“そう思われることに注意を払っていないこと”が、そもそも軽率に過ぎるのだ。
そうなってくると、彼の退職の原因になったという、いじめっ子に態度を改めるように懇々と説いたという行動も、彼が説明した通りのものだったのかと、疑惑が生まれることになる。そのときの教頭の目が険しかったという話も、山田の常軌を逸した行動への疑念の発露だったのかもしれないのだ。そして妻子が逃げることになった展開にも、彼の行動を恐れていた部分があったのではないかと推測することができる。そんな彼の突拍子もない行動の最終到達点が、“園児の前での自死”だったのだろう。
追悼上映イベントで紹介された「魔法を使えるかもしれない、子どもたちに魔法をかけるんだよ。まだ方法はわからないけど、使える気がするんだ」という録音に残された発言は、最後の行動に至った山田の錯乱を示すとともに、じつは彼の一連の活動は、子どもたちのことを思ってのことではなく、教職者としての自分の可能性を追求していただけという、彼の独善性を表しているように感じられる。彼の言う「魔法」とは、子どもの頃に助けてくれたという教師のように“教え子のなかで永遠に輝き続ける”というものではなかったのだろうか。だがそれは実際には、深刻なトラウマとして残り続ける“呪い”だったのである。
興味深いのは、その凶行が不鮮明に映し出される防犯映像が、『魔法少女おじさん〜第2章〜』の外で提示されるという点である。つまり三田監督は、貝塚から送られた、この映像を、おそらく作品内で使うことができなかったということなのだろう。貝塚や山田をコントロールしていたと思っていた三田監督は、ここで舐めていたはずの貝塚に想定外の一撃を食らうとともに、甘く見ていたはずの山田からは、「魔法」という名の“永遠に消えない呪い”を浴びせられたと想像できるのだ。そんなことができた山田の禍々しい狂気に比べれば、三田は悪人とはいっても、常識の枠に縛られた小悪党に過ぎないのかもしれない。
さまざまな「恐怖心」を紹介する『恐怖心展』でさまざまに展示されているように、人は何かの事柄に著しい恐怖を覚えている場合がある。本作で描かれたのは、登場人物である貝塚や日下部の、歌や魔法少女への「恐怖心」には理由が存在したということだ。精神的治療には、問題の原因を知ることが必要だとされる場合がある。しかし本シリーズ『魔法少女山田』が、ここで示したのは、それでも知らない方がいいケースというのもあるのかもしれない、という話なのだろう。
■配信情報
TXQ FICTION『魔法少女山田』
YouTube、TVer、U-NEXTにて配信中
©︎テレビ東京
公式X(旧Twitter):@TXQFICTION
公式Instagram:@txqfiction