『教皇選挙』が現代社会に投げかけた問い 「目に見えないもの」を顕在化させた一作に
日本では3月20日に公開された『教皇選挙』。第97回アカデミー賞でも作品賞を含む8部門にノミネートされ、脚色賞を受賞した本作は、第266代ローマ教皇フランシスコが同年4月21日に逝去したことによって、現実世界でも教皇選挙が行われる運びとなったことで注目を集め、5月26日には興行収入10億円超えが発表されるロングランヒットを記録した。
『教皇選挙』と現実のコンクラーベを比較検証 新教皇・レオ14世は“ベリーニ枢機卿”に近い?
バチカン市国に位置するシスティーナ礼拝堂の煙突から白い煙がのぼり、サン・マルコ広場が歓声に包まれる。日本時間5月9日午前1時過ぎ…『教皇選挙』のあらすじはこうだ。全世界14億人以上の信徒を誇るカトリック教会の最高指導者・ローマ教皇が逝去した。首席枢機卿のローレンス(レイフ・ファインズ)は、悲しみに暮れる暇もなく、新教皇を決める「教皇選挙(コンクラーベ)」を主宰することになる。世界中から100人を超える枢機卿が候補者として集まり、閉ざされたシスティーナ礼拝堂で極秘の選挙が始まるなか、水面下では各派閥によるさまざまな陰謀がうごめいていた。そこへ前教皇によって秘密裏にアフガニスタン・カヴール教区に配属され、誰も存在を知らなかったベニテス枢機卿(カルロス・ディエス)が現れ、台風の目となっていく。
奇しくも時勢とマッチし、予想を超える大ヒットとなった『教皇選挙』だが、本作はミステリーとしての面白さだけでなく、現代社会への問題提起に満ちている。そしてそれは実のところ、フランシスコ教皇が取り組んできた課題にも重なるものがある。本作の前教皇は革新派だったとされ、フランシスコ教皇をモデルにしているといわれているのだ。本稿では、実際のフランシスコ教皇の功績に触れながら、とくに現代社会におけるマイノリティに対する本作の視点を紐解いていきたい。
カトリック教会における女性たち
選挙のためにシスティーナ礼拝堂に隔離されることになった枢機卿たち。彼らが滞在する「聖マルタの家」で食事などの世話をするのは、シスターたちだ。カトリックでは、女性が聖職に就くことは許されていない。これは簡単に言えば、例えばミサを取り仕切ったりという重要な職務を担うことはできないということだ。言ってしまえば男性よりも下位の存在として扱われている。しかし作中では、「聖マルタの家」の最高管理人であるシスター・アグネス(イザベラ・ロッセリーニ)はローレンスと協力し、重要な役割を果たすことになる。彼女が枢機卿たちに向かって放った「私たちは目に見えない存在ですが、神は私たちに目と耳を与えてくださいました」というセリフは、自分たち女性は確かに存在し、そして意味のある存在なのだと主張する力強い言葉だ。まるで「あなたたちが私たちを無視しても、私たちはあなたたちを見ている。神もあなたたちを見ている」と警告しているかのような威厳に満ちた響きを持つ。
一方で現実世界では、フランシスコ教皇は教皇庁を改革し、女性を教皇庁の要職に就かせたり、司教会議で女性にも投票権を認めたりといった功績を残している。しかし女性を聖職者に任命する秘跡「叙階」をするべきか否かの問題は先送りにし、教会全体での女性の権利拡大を望む一部の人々からは批判された。それでもイタリアの教会改革活動家、パオラ・ラザリーニは「教会が明白かつ深刻な男女間の不均衡に苦しんでいることを、完全に認識した最初の教皇」(※1)と一定の評価をしている。
マイノリティを「敵」とみなす保守派
現実のカトリック教会が保守派と革新派で分断されているように、映画でもその対立が描かれている。革新派だった前教皇の崩御をきっかけに、教会を保守的な価値観に戻そうとするテデスコ枢機卿(セルジオ・カステリット)は、ある大きな事件によってさらにその確信を強くする。それはカトリック、ひいてはキリスト教とほかの宗教の分断を助長するものだった。彼は「敵と戦わなければならない」と言うが、これにベニテス枢機卿は「敵とは誰なのか」という問いを投げかける。アフガニスタンで本物の戦争を見てきた彼にとって、「敵」「戦い」という言葉は慎重に定義されなければならないものなのだ。自分たちと違うからといって「敵」とみなし、他宗教や移民を排斥しようとするのは、昨今世界中で台頭している保守勢力に顕著な動きだ。分断を煽るこうした考え方は、先だって行われた参議院選挙の結果を見ても、いまや私たち日本人にも無関係ではない。
翻ってフランシスコ教皇はというと、教皇選出以前から母国アルゼンチンで他宗教・他宗派との対話に積極的に取り組み、ユダヤ教、イスラム教、プロテスタント福音派、いずれとも信頼関係を築いていた。教皇選出の際には、アルゼンチン共和国イスラムセンター(CIRA)総長のスメル・ヌフリは、「宗教間の対話の強化に対する喜びと期待」を持っているとも述べている。(※2)